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謹賀新年

  • ごろねこ
  • 2025/01/01 (Wed) 06:48:15
明けましておめでとうございます。
昨年は「ごろねこ通信」を更新できずに申し訳ありません。

理由はわかりませんが、
更新しても「転送エラー」になってしまい、送ることができませんでした。
「ごろねこ通信」のように容量の多いページは更新すらしていませんが、
唯一毎月更新していた「新刊まんが情報」でさえ、
更新したものを転送するのに7、8回エラーを繰り返した後に、
ようやく転送できるような状態でした。

もっともコロナ禍になった2020年の春から、私はほとんど外出しなくなり、
昨年(24年)は、映画館にも古本屋にも1回も行っていません。
地元に書店がなくなってしまったため、新刊本もほとんど買わなく、
たまにネットで購入する程度です。

つまり「ごろねこ倶楽部」として、
映画やまんがについて書くことがなくなってしまっていました。
今年は何とか、少しは復帰したいと願っています。

とりあえずこの掲示板で映画やまんがについて記すリハビリを始めて、
仕事が暇になる7月頃から、映画館などにもまた出かけようかと思っています。
先のことはどうなるかわかりませんが、
一か月ほどは、この掲示板を覗いていただければ、更新しているかもしれません。
よろしかったら、長い目でお付き合い下さい。

『女相撲☆どすこい巡業中!』

  • ごろねこ
  • 2025/01/02 (Thu) 15:58:52
今日、紹介するのは、昨年6月に刊行された『女相撲☆どすこい巡業中!』。
じつに興味深く面白い作品だった。
作者は「漫画の手帖」の「21世紀通信」などで知られる堀内満里子。

「女相撲」に関して私は何も知らないが、古くから神事としてあったらしく、
江戸時代中頃からは興行として流行したらしい。
明治期には上半身裸であったり、一時期人気となった盲目男性との取り組みだったりが禁止され、
薄い肉襦袢を身に付け猿股を穿くようになったという。
大正期にはそれぞれ小規模の一座が幾つかあり、興行として地方を巡業しており、
昭和30年代頃まで存在したという。
実際には女力士たちの余興の舞踊やサーカスのような曲芸が主となっていったようだが、
「相撲」と謳っているからには女力士同士の取り組みがなくなったわけではないだろう。

「女相撲」というと猥雑な見世物興行のようにイメージしてしまうが、
庶民の娯楽が少ない時代にあって、
人々が楽しみにしていた娯楽の一つであったという面が強いのかも知れない。
驚いたことに昭和30年代を知っている私であっても、
「女相撲」は聞いたことがなかったが、
地方の町では小規模なサーカスや演劇などの巡業興行が、たまに開催され、
それを報せるチンドン屋などがビラを撒きながら、町を練り歩いていたものだ。

この作品は大正期を舞台に、女相撲興行の一座を描く。
第1話で、新人力士と少年たちとの交流を通して、
いかがわしいと思われてもいる女相撲の健全性と娯楽性を示し、
作者の描こうとする「女相撲」を明らかにしている。
そして2話以降は、様々な事情からその世界に身を投じることになる「女」たちの物語が、
順に時間を遡って描かれるが、本来転落したはずの「女」にとって「相撲」が希望になっている。
その中に炭鉱婦や女馬賊の物語まで描かれているのは、作者の時代への幅広い興味が窺える。

実際には「女相撲」が必ずしも「希望の地」というわけでもないのだろうが、
救われる女たちの話になっているので、読後感がよい。
そして、おそらく誰が描いてもエロを抜きには描けないのではないかと思われるところを、
いい意味でまったくエロの要素がないので、純粋に人間ドラマを楽しめた。

Re: 謹賀新年

  • キヨシ
  • Site
  • 2025/01/02 (Thu) 20:38:27
ご無沙汰しております。
滝田ゆうファンのキヨシです。

その節は、大変にお世話になりました。
年賀状をみて、全然、ごろねこさんと交流がなくなっていた事に気づき
掲示板にきてみました。

サイトが不調なのは、ほとんどのサイトがSSL化されたこともあるのでしょうか。
通信内容の暗号化でセキュリティーをあげるため、SSLという方式にしていないと、危険なサイトとして扱われるようになりました。

SSL化すると、アドレスの最初が「https」になって「s」が付け足されます。
今の、このサイトを見ると、「http」のままなので、SSL化されていない事になります。
http://goronekoclub.web.fc2.com/

SSL化は借りてるレンタルサーバーが大手なら、大概は、比較的簡単に、移行が出来るようになっています。
企業がセキュリティーを上げるなら有料のSSL化の方が良いとは思いますが、個人で顧客情報や金銭のやり取りがある訳でなければ、レンタルサーバーによって無料で利用できるSSLが用意されていたりするので、それを利用すれば良いと思います。

SSL化。

  • ごろねこ
  • 2025/01/03 (Fri) 08:24:03
お久しぶりです。
キヨシさんもお元気でしたか。

そう言われてみれば、2、3年前にSSL化についてのメールが来ていた気がします。
何を言っているのかわからなかったので、何もしませんでした(笑)。
掲示板のほうは自動的にSSL化してありましたね。

そこで、昨夜さっそく、サイトもSSL化しておきました。
ご助言をありがとうございます。
すっかりと、
世の中の流れについていけない引き籠り老人に、なっています。

ただ、転送不調の原因がこれかどうかはまだ確認していないので、
そのうち確認したいと思います。
不調のままなら、そろそろサイトも閉じるかと思っていましたが、
直っていれば、まだ残しておきたいですね。
更新はほとんどできませんけれど。

何かありましたら、またご助言をいただけると、
嬉しく思います。

『大友克洋全集』

  • ごろねこ
  • 2025/01/04 (Sat) 20:20:44
『大友克洋全集』は、大友作品をまんがだけでなく、できる限りすべて網羅すると謳っていたので、これはすごいと思い、購入することにした。だが、全何巻でどのくらいの期間で刊行するのか、ということはわからなかった。とくに発表されていなかったように思う。
2022年の1月に刊行された第1回配本(『童夢』と『アニメーションAKIRA ストーリーボード①』の2冊)に、挟んであった「全巻購入特典応募券」によって、全41巻を予定しており、第1回配本の2冊はそのうち第1期全11巻の2冊であると知った。1月から9月まで隔月で2冊ずつ計10巻刊行され、11月に『銃声』1冊が刊行されて第1期11巻が完結する予定と記されていた。

そして、1、3、5月の第3回配本までは、タイトルの変更はあったものの6冊が順調に刊行された。
だが、その後7、9月に刊行はなく、11月に当初のラインナップにはなかった『アニメーションAKIRA レイアウト&キーフレームス①』が刊行された。そしてこの後、スケジュールが大幅に遅れ出す。その②巻は2023年の5月に刊行され、③巻(完結)にいたっては2024年の11月に刊行されたのである。その前の23年7月に『銃声』と『Fire-Ball』が刊行されており、③巻で第1期全11巻は完結したが、2022年中に完結する予定だった第1期は24年末まで丸3年かかってしまったわけである。ただ、③巻の刊行前の24年8月には第2期の『G……』と『AKIRA①』が先に刊行され、丸3年で13冊刊行されたことになる。

第1期に予定されていた『Scripts1』と『The Live Action蟲師』は2期以降に回されたことになるが、『アニメーションAKIRA レイアウト&キーフレームス』は、『Scripts1』に収録する予定だったものを絵を中心に独立させて全3巻にまとめたものかも知れない。『蟲師』は漆原友紀のまんがだが、オダギリジョー主演で実写映画化されたとき大友が監督と脚本を担当している。大友作成の脚本や絵コンテなどが2期以降に刊行されるだろう。

さて、第2期には『AKIRA』本編の第1巻が刊行された。『AKIRA』はKCデラックスで全6巻で刊行されたが、この全集ではおそらく巻数は増えるだろう。連載時の扉絵やカラーページがそのまま再現されており、ページの左右も連載時と同じになっている。KCデラックスと異なる絵のコマは、連載時に戻したものであろうか。第1期の『アニメーションAKIRA ストーリーボード』は大友が描いた原作とは違う展開の『AKIRA』として貴重だし、『レイアウト&キーフレームス』にいたっては要するに大きなパラパラまんがなのである。もっとも私はどうもうまく見ることができないのだが。この三種類の『AKIRA』が収録してあることでも、この全集がかなり特異なことがわかるだろう。

ともあれ、全41巻の全集のうち13冊刊行されるのに3年かかった。このペースでいっても残り28冊が刊行されるのにはあと7年かかる。果たして私は完結を見届けることができるのだろうか。

Re: 謹賀新年

  • キヨシ
  • Site
  • 2025/01/05 (Sun) 09:04:43
SSL対策、お疲れさまでした。
元々は、Googleのブラウザchromeで、SSL対策をしていないサイトを表示しようとすると、初期の頃は大袈裟に危険なサイトとして警告することから端を発し、他も右へ倣えのような感じで強制的に一般化されたので、いまだに知らないでSSL化していない人も多いようです。

個人的なニュースとしては、埼玉県羽生市で、レトロ博物館を個人で始めました。

滝田ゆう展示も許可を得て、展示しています。

キヨチ博物館(X(旧Twitter))
https://x.com/KiyochiMuseum

https://www.tuginani.com/tuginani/

https://note.com/yaen2940/n/n425babfde411

ごろねこさんにも、当時、所持していなかった滝田ゆうの貸本「ガバチョン紳士」と滝田ひろし貸本をご提供いただいた事を思い出します。
その説は、ご協力をありがとうございました。

お陰様で、現在は、ご遺族よりも滝田ゆう氏の貸本は持っていると思います。

『キヨチ博物館』

  • ごろねこ
  • 2025/01/05 (Sun) 21:41:27
博物館、すばらしいですね。
キヨシさんが、そうした志をお持ちだったとは知りませんでした。
まんが本などの紙類だけでなく、ゲーム機など機械類まで(むしろそちらが主かな)あるのがすごいですね。

何となく集まってしまったまんが本を、雑然と積んでおくのではなく、一望できるように並べてみたいとか、
図書館みたいに整理して人にも見てもらいたいとかは、私も思ったことがありますが、
夢のまた夢でした。

そろそろ終活に入ろうと、
昨年の11月には、まず映画関係の本や雑誌を1200冊と、
プレスシートやスチールを保存しておいたスクラップブックを50冊ほどを処分しました。
今年中には3000冊以上ある文庫本を処分しようと思っています。
文学書やまんが本もいずれは処分することになるでしょうが、
私のところの本たちに比べて、キヨシさんのところの本たちは幸せですね。

人はそれぞれ、本もそれぞれで、仕方がないことですけれど。

『映画採点表』

  • ごろねこ
  • 2025/01/07 (Tue) 20:19:40
昔、映画を見るのも仕事のうちだった頃は、年に平均80本ぐらいの映画を見ており、映画の仕事がなくなって「ごろねこ倶楽部」を始めた頃でも週に1本ぐらいの割合で見ていたと思う。それが、だんだん映画館に行くのが億劫になり、見る本数も減っていったが、コロナ禍で決定的となった。

2020年の2月に『1917 命をかけた伝令』を見た後、2021年の12月まで映画館には行かなかった。そのときも1回行っただけで、その後、また1年空いた。2023年は月に1本程度見に行っていたが、12月に『ゴジラ -1.0』を見たのが最後で、以来、映画館には1度も行っていない。

当サイトの「映画の部屋」の「映画採点表」は、『1917 命をかけた伝令』が最後になったままなので、その後見た映画をここに補足しておく。コメントは付けないが、映画の出来★と私の好み☆を、3段階評価で記しておく。

〇2021年
12月『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』★★ ☆☆
〇2022年
11月『ザリガニの鳴くところ』★★★ ☆☆
12月『ブラックアダム』★ ☆
〇2023年
2月『アントマン&ワスプ クアントマニア』★★ ☆
3月『フェイブルマンズ』★★ ☆☆
  『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』★★ ☆☆
6月『ザ・フラッシュ』★★ ☆☆
7月『インディ・ジョーンズと運命のダイアル』★★ ☆☆
  『君たちはどう生きるか』★★ ☆☆
9月『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』★★ ☆
10月『ルー、パリで生まれた猫』★★ ☆☆
  『ザ・クリエイター 創造者』★★★ ☆☆☆
  『ドミノ』★★ ☆☆
12月『ゴジラ-1.0』★★ ☆☆☆

映画鑑賞

  • ごろねこ
  • 2025/01/10 (Fri) 16:13:31
さて、私が映画館に行かなくなったからといって、映画を見なくなったわけではない。以前は映画館で見ることができなかった映画は、ブルーレイやDVDで買って見ていた。中古も含めれば年に100枚近く買っていたと思う。ただ、数が増え過ぎて手に負えなくなっているので、今はあまり買わないように心がけている。24年は映画は7枚、音楽ライブは4枚しか買っていない。

今は、ほとんどの映画はCS、BS放送で見ている。5年ほど前から地上波TVはまったくといっていいほど見なくなった。TVは、映画やライブをCS・BSで見るぐらいである。仕事場はケーブルTVなので、映画専門の無料チャンネルだけでも7つある。それで見ているのである。

ただ私は映画とは映画館で見るものだと思っている。暗い館内、大きなスクリーン、迫力ある音声、ただ目を凝らして没入する物語の世界。それが映画だと思っている。ところが、TVで見る映画は映画の世界に没入するのではなく、なるほど、こういう映画なのかと、ストーリーや映像や俳優の演技を確認している気分になってしまう。映画館で見るのとTVで見るのとでは、映画の印象もかなり違うものになる。

CS・BSで映画を見るには、まず、翌月のTV番組表が送られて来たとき、まだ見たことがない映画はもちろん、見たことがある映画でも、見たい映画をチェックする。これが大体、月に20本から25本ぐらいになる。CS・BSは24時間放送していて、リアルタイムで見るのは難しいので、チェックした映画は録画しておいて見ている。といっても全部録画するわけではなく、映画情報によっては、見なくていいや、と気持ちが変わる映画もあるので、実際に録画するのは月に15本ぐらいになる。録画した映画はすぐに見るようにしているが、時間が経ってから見る映画もあるし、結局見ないまま消去してしまう映画もある。

見た映画の中には、DVDにダビングして保存しておく作品がある。そうした映画が毎月5本から10本ぐらいだろうか。こうして映画を見るようになって1年ほど経ったが、録画したDVDは80枚ほどなので、こんなものだろう。ただ、最初の年なのでDVDに保存した映画が多くなってしまったが、もう少し減らしたいと思っている。

DVDにして残しておく映画は、必ずしも佳作・名作というわけではない。たとえばどんなにいい映画でも、人間ドラマを見返したいとは、私は思わない。ジャンルでいうなら、SF・アクション・サスペンス・ホラーが多い。出演した俳優がいいとか、映像が美しいとか、アクションが凄いとか、そんな理由でDVDに残しておくことが多い。といって買ったブルーレイやDVDですら2回以上見ることはめったにないので、DVDに残しておいてもほとんど見返すことがないのが実情である。ついつい集めたくなってしまうマニアの悪しき癖なのだろう。

たとえば、DVDに残した映画を一つ挙げてみると……。
11月にムービープラス・チャンネルで、『0011ナポレオン・ソロ』の映画版全8作を放送したが、これは全作DVDに保存した。「ナポレオン・ソロ」は私が小学生のときにTVで見ていたドラマである。劇場版が8作作られ(劇場でも公開され)、レギュラー放送の中に組み込まれていたので、全作見たはずだが、まったく覚えていなかった。TVでは、ソロと相棒のイリヤ・クリヤキンの声を矢島正明と野沢那智が吹き替えていて、その声の印象が強かったので、字幕版だと何だかしっくりこない。第1作(TVでも第1回)の『罠を張れ』は、ソロを撃った銃弾が防弾ガラスに当たって蜘蛛の巣のように亀裂が入るという、タイトルムービーに使われるシーンが有名だが、この「絵」はスパイ・アクションものを象徴する「絵」として最も優れていると、私は思っている。ただし映画の中では大したシーンではない。

MCU(1)

  • ごろねこ
  • 2025/01/14 (Tue) 21:20:46
『MCU』とは「マーベル・シネマティック・ユニバース」のこと。
マーベル・コミックのヒーローたちが活躍するコミックスを原作として、マーベル・スタジオが製作した映画で、同じ世界観で作られているシリーズの総称。2008年5月公開の『アイアンマン』を第1作とする。アメリカでは6月に第2作『インクレディブル・ハルク』が公開されたが、日本では『インクレディブル・ハルク』が8月、『アイアンマン』が9月公開と、公開順が逆になった。

私は、昔TVドラマの『超人ハルク』が好きだった。TV版のハルクはボディビルダー出身のルー・フェリグノという俳優が体を緑に塗って演じていたので、普通よりは大男という程度だったが、ハルクを追う新聞記者の存在があり、『逃亡者』や『インベーダー』のように追跡から逃れながら行き着く町で事件を解決していくという面白さがあった。またアイアンマンは日本では馴染みのないヒーローで、おそらく日本にはこれが初登場だと思われる。私は中高校生の頃、アメコミに興味を持ち、神保町で買っていたが、『スパイダーマン』や『アイアンマン』もその中にある。アイアンマンはロボットのような外見が好みだったのだと思う。
ともあれ、こんな長く続くシリーズとは思わず、この2作からMCUを見始めたのだった。

なお、ハルクとなるブルース・バナーをエドワード・ノートンが演じる『インクレディブル・ハルク』の前に、エリック・バナが演じる『ハルク』が作られたが、そちらはMCU作品にはカウントされていない。もっともMCUの中でも、ブルース・バナー役は、エドワード・ノートンからマーク・ラファロに交代している。
他にも「MCU」にカウントされないマーベル作品は多い。ソニー・ピクチャーズが製作したトビー・マグワイア主演の『スパイダーマン』3作(02~07)、アンドリュー・ガーフィールド主演の『アメイジング・スパイダーマン』2作(12・14)はMCUには入らない。だが、次にソニーが製作したトム・ホランドの『スパイダーマン』3作(17~21)はMCU作品となり、トム・ホランドは他にも3作のMCU作品にスパイダーマンとして出演している。ソニーには他にもスパイダーマンの敵役を主人公とした『ヴェノム』3作(18~24)、『モービウス』(22)、スパイダーウーマンを描く『マダム・ウェブ』(24)があるが、これらもMCUには数えられない。また20世紀フォックス製作の『X-MEN』新旧7作(00~19)、『ウルヴァリン』3作(09~17)、『ニューミュータント』(20)、『デッドプール』2作(16・18)もMCU作品ではないが、デッドプールの3作目に当たる『デッドプール&ウルヴァリン』だけはMCUシリーズに入っている。今後、デッドプールやウルヴァリンがMCUに登場するようになるのかはわからない。
このようにすべてのマーベル映画がMCUであるわけではない。

さて、MCUにはフェーズがあり、フェーズ1から3までを「インフィニティ・サーガ」、4から6までを「マルチバース・サーガ」と呼んでいる。現在はフェーズ5の途中である。

フェーズ1は『アイアンマン』から『アベンジャーズ』までの映画6作。アイアンマン、ハルク、ブラック・ウィドウ、マイティ・ソー、キャプテン・アメリカたちの登場を描き、ジ・アザー率いる宇宙種族がソーの義弟であるロキと共に地球侵攻をしてきたとき、アベンジャーズとして結束して撃退する。
フェーズ2は『アイアンマン3』から『アントマン』までの映画6作。ジ・アザーの主人であり、まだ見ぬ敵サノスとの戦いに備えて、アイアンマン=トニー・スタークはロキの杖の宝石から平和維持のために人工知能ウルトロンを作り出す。だが、自我に目覚めたウルトロンは暴走し、人類を抹殺しようとする。このウルトロンをアベンジャーズと新たに加わった仲間が倒す。
フェーズ3は『シビルウォー/キャプテン・アメリカ』から『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』までの映画11作。アイアンマンとキャプテン・アメリカは意見の相違と過去の因縁から対立し、アベンジャーズは分裂する。サノスはエネルギーの結晶石である6種のインフィニティ・ストーンをヒーローたちと戦って次々と集め、宇宙の均衡を保つために全宇宙の生命体の半分を消すことに成功する。その後、ソーがサノスを倒すが、アベンジャーズの生存者たちは、タイムトラベルによってサノスより先にストーンを手に入れて世界を復元しようとする。だが、過去のサノスも生命体の半分を消すだけでなく世界を粉々にして作り直すことへと考えを変え、大量の軍勢を集めてアベンジャーズを襲う。アベンジャーズも新しい仲間や加勢する軍勢が加わり、一大決戦となる。ついにアイアンマンがインフィニティ・ストーンによってサノスの軍勢を消し去るが、その強大な力によって自らの命も失われてしまう。

各作品ごとに出来不出来はあるものの、フェーズ1から3までの全23作は、アベンジャーズとサノスとの戦いを描く『インフィニティ・サーガ』として面白かった。数多くのヒーローが登場し、様々な戦いを経て、最終決戦へと至る物語は、たとえば『007』や『男はつらいよ』などの話数を重ねるシリーズとはわけが違う。もちろん、すべてが当初の予定通りではないのだろう。興行的な成功が内容の充実ともなり、稀有なシリーズを完結させたといえる。
10年以上の間、本当に楽しませてもらった。

MCU(2)

  • ごろねこ
  • 2025/01/19 (Sun) 21:03:49
フェーズ3までのMCU「インフィニティ・サーガ」を楽しんで見た私だったが、フェーズ4以降はどうも楽しめない。面白いと思う映画もないわけではないが、つまらない映画が多い。その理由を説明しよう。

まず前提として、2009年にウォルト・ディズニー・カンパニーがマーベル・エンターティンメントを買収したことがある。といって、それは何の問題もないことのはずで、当初はその通りだったが、ディズニーがポリコレ(ポリティカル・コレクトネス=あらゆる表現を差別・偏見のないものに正す)やDEI(ダイバーシティ・エクイティ・インクルージョン=多様性・公平性・包括性)やLGBTQ+(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー・クエスチョニング・プラスアルファ)に強く配慮し始め、それが顕著になっていったのが2020年頃だった。
たとえば過去のアニメ―ション映画を実写化したとき、リトル・マーメイドや妖精ティンカーベルを黒人女優にキャスティングした。それはまだしも、「雪のように肌が白い子」から名付けられた白雪姫をラテン系女優に演じさせるのは、多様性の解釈を間違っている。

「MCU」は、フェーズ3の最終作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』を2019年の6月に公開してから、コロナ禍の影響もあってか、2020年には何の作品も公開しなかった。フェーズ4の映画は2年後の2021年の7月に公開された『ブラック・ウィドウ』が最初だった。だが、フェーズ4からは劇場公開される映画だけでなく、ディズニー・プラスで配信されるドラマやアニメも「MCU」の正式な作品となった。たとえば、『ブラック・ウィドウ』の前に『ワンダヴィジョン』『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』『ロキ・シーズン1』と3シリーズのドラマが配信され、フェーズ4は7作の映画と7作のドラマと2作のアニメから成っている。

まず目を惹くのは、最初のドラマ『ワンダビジョン』もフェーズ4最初の映画『ブラック・ウィドウ』も女性が主役であることだ。フェーズ3までは女性をタイトルロールにした映画は21作目の『キャプテン・マーベル』しかなかった。ちなみに黒人がタイトルロールなのは『ブラックパンサー』だけ。それが、フェーズ4は他に『ミズ・マーベル』『シー・ハルク』が女性、『ファルコン』『ブラックパンサー』が黒人、『シャン・チー』が東洋人と多様性に富むようになった。多様性があることに不満はない。むしろ望ましいことだろう。だが、このヒーローはゲイだとか、誰と誰がレズビアンだとかいった要素がちらつき始めてくるとうっとうしくなる。

ただそんなことよりも、私にとっては、MCUが映画だけでなく、ドラマやアニメを組み込んだこと自体が問題である。映画の人気にあやかってディズニー・プラスの視聴者を増やそうとしたのであろうか。
じつはフェーズ3まででも、MCUのスピンオフのドラマは何作か作られていた。たとえば、アベンジャーズを結成させた国際平和維持組織S.H.I.E.L.D.という組織の活躍を描く『エージェント・オブ・シールド』やマーベル・ヒーローを主人公にした『デアデビル』などである(ベン・アフレックがデアデビルを演じた03年公開の映画『デアデビル』やそのヒロインを主役にした05年の『エレクトラ』はMCU以前の作品)。だが、これらのドラマはあくまでもスピンオフであり、MCUシリーズではなく、ディズニー・プラスの配信ではない。これらを見ていなくてもMCU映画を見るのに支障はない。逆にMCUを見ていればドラマの背景への理解は深まるが、ドラマを見ていないとMCU映画がわからなくなるなどといったことはないのである。現に私はスピンオフのドラマは、何も見ていない。

ところが、ドラマもMCUに組み込まれてしまったフェーズ4以降、ドラマは「ディズニー・プラス」で配信されるようになり、ドラマを見ていないとMCU映画にわからないところができてしまうことになった。
たとえば、フェーズ3の9作目の『キャプテン・マーベル』は、時間的にはフェーズ1以前の物語であり、次に登場するのがフェーズ3の10作目の『アベンジャーズ・エンドゲーム』である。この2作によって、元アメリカ空軍のテスト・パイロットだったキャロル・ダンヴァースがある事情によりほぼ不老の超人キャプテン・マーベルとなり、サノス軍との戦いに参戦する、という展開が描かれた。そして、キャロル・ダンヴァースが久々に登場したMCUのフェーズ5『マーベルズ』では、彼女の前に、彼女に復讐しようとする敵が現れる。だが、そのとき彼女は、カマラ・カーンとモニカ・ランボーという女性の超人たちと出会う。そして三人が能力を使うたびに、なぜか彼女たちの居場所が入れ替わってしまうという現象が起こったのだ。この運命的な出会いから、三人はチームとして戦うことになる。
カマラ・カーンはフェーズ4のドラマ『ミズ・マーベル』の主役の高校生で、自分の体を自在に変形できる能力を得ている。モニカ・ランボーは、キャロルと軍の同僚だったマリア・ランボーの娘で、『キャプテン・マーベル』に少女として登場したが、やはりフェーズ4のドラマ『ワンダビジョン』で超常能力に覚醒したことが描かれているという。つまり、この二人はドラマを見ていれば周知のメンバーなのだが、ドラマを見ていない私には、突然現れた意味不明の人物に思えてしまうのである。

また、フェーズ2の『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』でアベンジャーズの敵として登場したワンダ・マキシモフは、フェーズ3の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でアベンジャーズの一員となり、アベンジャーズの分裂時に人造人間ビジョンと逃亡して隠遁する。その後、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』でサノスと戦い、惜しくもストーンの力で消されてしまうが、『アベンジャーズ/エンドゲーム』で復活し、勝利する。そして、次にワンダが登場する映画はフェーズ4の『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』なのだが、そのワンダは最悪のヴィランになっている。その間に位置するドラマ『ワンダヴィジョン』を見ていないと、このワンダの変貌はわからない。

このように、映画を見ているだけでは話がわからなくなってしまった。ドラマまで追いかける気のない私にとって、興味を失わせる理由である。

MCU(3)

  • ごろねこ
  • 2025/01/24 (Fri) 20:57:00
そうはいっても私は、フェーズ4以降もMCUを映画だけは見ている。最初の映画は『ブラック・ウィドウ』で、元々スカーレット・ヨハンソン演じるこのキャラは魅力的だった。『エンドゲーム』で死んでしまったのを残念に思っていたので(この時点で、フェーズ4以降が「マルチバース・サーガ」であると発表されていたかどうかは記憶にない)、もしかしたらブラック・ウィドウが死んでいない世界線の話かと思ったが、アベンジャーズが分裂していた時期の事件を描いていて、最後には彼女の墓が映る。異世界の話ではなかった。ただしドラマのほうではマルチバースの異世界にいるブラック・ウィドウが登場するらしい。

次の『シャン・チー/テン・リングスの伝説』はカンフーの達人の話かと思ったら怪獣映画で、『エターナルズ』は人類を守る不老不死の種族で、設定ばかりが壮大な映画だった。どちらもマルチバースには関係ない。

「[ユニ]バース」の「単一」に対して「[マルチ]バース」は「多数の」という意があるので、多数の世界、つまり多元宇宙のことらしい。昔からSFで使われていた「パラレルワールド(並行世界)」と同じようだが、パラレルワールドという概念は、ある現象から分裂して並存する世界、ということらしいので、どの現象でもどの世界でも常に分裂していけば無限に並存する世界が存在することになる。それに対してマルチバースは、元々この宇宙は可能性のある無限の宇宙の集合体であるという捉え方なのだろうか。イメージとして、パラレルワールドは無限に枝分かれする樹木のような世界を形成するが、マルチバースは可能性のある無限の樹木が育つ森のような世界なのかも知れない。そのへんは私にはわからない。ともあれ、世界は一つではなく、少しずつ違った世界が無限に存在していると考えるのが「マルチバース」である。

そして、これらの世界は互いに行き来することはできないのだが、フェーズ4『スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム』で、そのタブーが破られることになる。
フェーズ3最終作『スパイダーマン/ファー・フロム・ホーム』で戦ったミステリオに正体を暴露されたスパイダーマン=ピーター・パーカーは、ドクター・ストレンジに頼み、ピーターがスパイダーマンであることをすべての人が忘れる呪文を唱えてもらう。だが、呪文を唱える途中でピーターが邪魔したために魔法は失敗し、逆にピータ―がスパイダーマンだと知る者たちを並行世界から呼び寄せてしまうことになる。
それは、MCUではない映画の『スパイダーマン』3部作に登場していたトビー・マグワイア演じるピーター=スパイダーマンと、そこに出ていた悪役、グリーン・ゴブリン、ドクター・オクトパス、サンドマン。また同じく『アメイジング・スパイダーマン』2作に登場していたアンドリュー・ガーフィールド演じるピータ―=スパイダーマンと、そこに出ていた悪役、エレクトロとリザードだった。ちなみに、グリーン・ゴブリンは『アメイジング・スパイダーマン』にも登場しているが、ここは『スパイダーマン』のほうのグリーン・ゴブリン(演じるのはウィレム・デフォー)が出ている。スパイダーマンが3人出ているのだから、グリーン・ゴブリンが2人出てもいいように思うが、複数の同じキャラが登場するのは、主役のスパイダーマンだけにしたかったのだろう。

MCUではない映画から、それぞれオリジナルのスパイダーマンを集結させるというアイデアは面白く、それを実現させるために「マルチバース」という設定を使う発想はよかったと思う。だが、MCUのトム・ホランドが演じるピータ―がいる世界は「アース616」、トビー・マグワイアのピータ―がいるのは「アース96283」、アンドリュー・ガーフィールドのピータ―がいるのは「アース120703」と説明があり、無限にある世界に番号が付くのは矛盾だろう。
制御不能となったマルチバースを元に戻すため、その原因となったアース616のピータ―は、すべての人々から自分の記憶を消すようにドクター・ストレンジに頼む。ストレンジの呪文は成功し、アース616に召喚された敵も味方もそれぞれの世界へ帰還する。だが、同時にこの世界でもすべての人からピータ―の記憶は失われてしまうのである。カオスとなった世界の狂乱から、一転して孤独の底に沈むスパイダーマン。この落差の余韻は深く、スパイダーマンの今後が期待される(一応、映画とドラマが予定されている)。

この1作だけだったなら、マルチバースの設定を面白く使い、3人のスパイダーマンを一堂に会して見せたことを喜んだかも知れない。登場人物は混乱しているが、物語の舞台はあくまでもこの世界(アース616)であり、異世界から訪問者が来て事件が起こり、訪問者が帰って事件が解決するというシンプルな展開だからだ。
だが、次の『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』になると、映像やアクションの見せ場が多く見ていて楽しくはあるが、ストーリーとしては辻褄の合わないメチャクチャな世界を見せられている気分になる。

ごろねこの本棚【35】(1)

  • ごろねこ
  • 2023/11/27 (Mon) 19:46:59
『妖怪ハンター』(諸星大二郎)
集英社・1978年7月刊・新書判

諸星作品は「CОM」の月例新人入選作『ジュン子・恐喝』で初めて読んだが、リアルな人間ドラマで、絵はまんがや劇画というより写実的に描こうとする挿絵のようなタッチで、あまり読む気になれなかった。その前に第五席に入って表紙と本文1ページだけ掲載された『硬貨を入れてからボタンを押して下さい』は破滅した世界に生き残った男を描くSF設定の作品で、そちらのほうが面白そうだったが、タイトルから何となく内容が推測できてしまった。ずっと後に全ページが発表されたが、意外性はなかった。その後、「漫画アクション」に『不安の立像』などを発表したり、「ビッグコミック」で『女は世界を滅ぼす』が新人賞に佳作入選したりしていたことは、当時は知らず、諸星作品に再会したのは「週刊少年ジャンプ」で第7回手塚賞に入選した『生物都市』だった。これは絵もストーリーも見違えるほどよくなっており、さすがに手塚賞受賞作品だった。J.G.バラードの『結晶世界』をヒントにしたように私には思えたが、たとえそうだとしてもすばらしい作品であることに違いはない。ちなみに『生物都市』は、この『妖怪ハンター』に併録されている。
そして、諸星にとって初めての連載作品になったのが、「週刊少年ジャンプ」における『妖怪ハンター』だった。だが、第1話『黒い探求者』(1974年37号)、第2話『赤い唇』(同38号)、第3話『死人帰り』(同39~41号)と5週連載全3話で、このときはあっけなく終わってしまった。その後、1976年に「少年ジャンプ増刊8月号」に『生命の木』を発表し、さらに描き下ろしの『闇の中の仮面の顔』を追加して1978年に『妖怪ハンター』として刊行したのだった。このシリーズは、その後も続いて刊行されている。
主人公は「稗田礼二郎」。本書収録バージョンでは、「もとK大考古学教授。新進考古学者と注目をあびたが古墳についての新説で日本考古学会追放……」と大学教授を馘になり学会も追放されたと紹介されている。だが、後のバージョンでは「異様な事例や奇怪な題材にばかり手を出すので異端者扱いされて」「古墳についての新説で物議をかもした新進の考古学者」と、異端者ながら学会は追放されてはいない。この事件後にK大教授は辞すが、他大学の客員教授などを続けている。長髪・黒服姿で、全国の遺跡や伝承に関わる怪事件を追い、モノ(魔物・妖怪・物怪・精霊など)を研究している。作者が、史料を誦習し伝承したという『古事記』の稗田阿礼から名をとったように、礼二郎の役割はモノを探り、記録することである。ハントすることではない。「妖怪ハンター」というタイトルは当時の担当編集者が名付けたもので、諸星はこのタイトルが好きではなかったという。そこで「稗田礼二郎のフィ―ルド・ノートより」とか「稗田のモノ語り」とか別のシリーズ名をつけてもいるが、結局は「妖怪ハンター」の名が使われている。

ごろねこの本棚【35】(2)

  • ごろねこ
  • 2023/11/29 (Wed) 19:52:26
『ヒルコ/妖怪ハンター』(監督・塚本晋也、出演・沢田研二)
松竹・1991年5月公開・2021年Blu-ray発売

『妖怪ハンター』の第1話「黒い探求者」に第2話「赤い唇」の要素を加えて映画化した作品。昔、VHS時代にレンタルで見たことがあったが、夜や地下の場面が暗くて、かなり見づらかったという印象があった。このblu-rayで見ると、暗いシーンでもはっきりと見えるし、昼のシーンの田舎の風景も美しい。VHSで見たときより、倍は面白く感じた。
原作の「黒い探求者」は、比留子古墳を研究していた八部という郷土史家が石室で首なし死体で発見され、息子のまさおから頼まれた稗田がその謎を調査するという話。「赤い唇」は、地味で真面目な優等生の月島令子は中学で不良グループのいじめの対象だったが、ある日を境に派手な赤い唇の少女へと変貌し、彼女の周りでは次々と人が死んでいくという話。彼女は朱唇観音に封じられていた魔物に取り憑かれ、その唇から発せられた言葉には誰もが従わずにはいられなかったのだ。
映画は、八部は稗田の亡き妻の兄で中学教師をしている。息子のまさおはそこの中学生で、同級生の月島に密かに想いを寄せている。というように登場人物間に関係がある。原作の稗田は冷静で知的なキャラクターだが、映画では生真面目だがドジな性格で、そこが一番の違いである。また、妻を自分の過失で亡くしたと思って苦しんでいることが明かされるが、その苦しみを乗り越えることが映画のテーマに関わっているにせよ、原作の稗田から妻がいる雰囲気はまるで感じられないので、妻のエピソードは余計だと私には思えた。
異端の考古学者・稗田礼二郎は、亡き妻の兄で中学校教師の八部から、悪霊を鎮めるために作られたと思われる古墳を発見したと聞く。それは稗田の学説を立証する古墳であった。だが、八部は古墳を調査中に教え子の月島令子と共に行方不明となった。八部家を訪ねた稗田は、八部家が代々村を守る家柄であり、家に伝わる「冠」を八部が持ち出していたことを知る。八部の息子のまさおは二人の友人と共に行方不明の父と令子を探しに、夏休み中の学校に忍び込む。古墳は学校内のどこかにあるのだ。だが、令子は化物となっており、友人たちは殺されてしまう。まさおは稗田と合流し、稗田の妖怪退治の武器を手に、校内を探索する。
映画の中学校のシーンは、原作にはまったくないのだが、夏休みの夜、学校で化物と戦うというのは、数年後にブームとなる「学校の怪談」を先取りした感もあり、面白い。
稗田とまさおは八部のノートから、古墳の石室の奥へ続く入口の呪文のありかを知る。奥には無数の化物(ヒルコ)がいる虚無の空間が広がっていた。そして八部が開けてしまった入口からヒルコがこちらの世界に出ようとしていると考えた稗田は、八部が持ち出した「冠」を取り戻すため入口を開ける呪文を唱え、まさおと共にヒルコのいる空間へと入る。無数のヒルコが二人に襲いかかるが、ヒルコとなったはずの八部や令子、友人たちが盾になってくれた隙に呪文を唱え、手に入れた「冠」の力で撃退して、入口を封じるのだった。
この映画で最も注目されるのは、稗田礼二郎役の沢田研二だろう。塚本監督は、稗田役は岸田森以外にはあり得ないといわれていたが、すでに故人なので、誰からも文句の出ないキャスティングにした、と述べている。沢田はそれまでにコントやコメディも多くこなしていたが、映画では『太陽を盗んだ男』や『魔界転生』のイメージが強い。原作の稗田の雰囲気ならともかく、ドジな稗田を演じるのは意外だった。だが、沢田が出演したことで、この映画の魅力は確実に増していると思う。映画公開後に描かれた「妖怪ハンター」シリーズの『蟻地獄』で、稗田の講義を受けた女子大生たちが、「ねえ、稗田先生って沢田研二にちょっと似てない?」「え……どこが…?」と会話を交わしている。確かに「どこが?」なのだが。

ごろねこの本棚【35】(3)

  • ごろねこ
  • 2023/11/30 (Thu) 19:47:02
『海竜祭の夜-妖怪ハンター-』(諸星大二郎)
集英社・1988年7月刊・A5判
『稗田のモノ語り・魔障ケ岳・妖怪ハンター』(諸星大二郎)
講談社・2005年11月刊・A5判

『ヒルコ/妖怪ハンター』のエンドロールに「原作・海竜祭の夜」とある。これは、新書判の『妖怪ハンター』を刊行後に「週刊ヤングジャンプ」などに描いたシリーズ新作4編と合わせて、A5判で再刊行し、新作の1編「海竜祭の夜」を表題にしたためである。映画公開時に、原作の「黒い探求者」と「赤い唇」を読める新刊が『海竜祭の夜』だったのだ。ただし新書判に収録してあった「死人帰り」は、不満足なものなので収録しなかった、と諸星があとがきに記している。架空のものであれ、何らかの伝承や古書に寄せた展開をとれなかったことが不満だったのだろうか(「死人帰り」は文庫版の『妖怪ハンター』で復活している)。
新書判の『妖怪ハンター』は第1話「黒い探求者」の前に2ページ、第5話(発表順とは異なる)「死人帰り」の後に1ページ、作者と思われる人物が登場する枠組みのページを描き加え、『妖怪ハンター』という5話からなる物語を完結させていた。だが、その後もこのシリーズを描き続けたため、枠組みのページを削除して、「海竜祭の夜」を第1話とする再構成の「妖怪ハンター」シリーズが始まったわけである。この時点ですでに次作の「川上より来りて」は発表済みだったが、「出版社側の理由で(『海竜祭の夜』への収録を)断念せざるを得なかった」とあるので、その後もこのシリーズを描き続けることは織り込み済みだったのだろう。実際に第5話として配置された「生命の木」以降の数作は、次の『天孫降臨』収録作まで巻をまたいで「生命の木」に関する謎を追う連作となっている。「生命の木」(1976年)から「天孫降臨(91年)まで15年経っていることを思えば、このテーマへの作者の熱意が感じられる。2001年に刊行された「諸星大二郎自選短編集Ⅰ」の巻頭に「生命の木」を選んでいることからも、この作品を初期「妖怪ハンター」の代表作といっていいだろう。
2005年に再度「妖怪ハンター」が映画化されたとき、原作は『魔障ケ岳』の刊行時で、映画の宣伝の帯がついている。当時私は、こんな古い作品を映画化しないでもっと新しい作品を映画化すればいいのに、などと思ったが(じつは今でも思っているが)、「生命の木」を映画化するだけの、関係者の思い入れがあったのだろう。

ごろねこの本棚【35】(4)

  • ごろねこ
  • 2023/12/04 (Mon) 19:40:24
『奇談』(監督・小松隆志、出演・阿部寛)
ジェネオンエンタテインメント・2005年11月公開・2006年DVD発売

2005年に「生命の木」を映画化した『奇談』が公開された。稗田礼二郎役は阿部寛。『ヒルコ/妖怪ハンター』の沢田研二と比べると原作のキャラに近く知的でクールだが、長髪ではない。
原作は次の通り。東北の隠れキリシタンの里である渡戸村に伝わる聖書異伝に興味を持った男が、村を訪れる。教会へ行くと、村はずれの「はなれ」と呼ばれる集落から善次という男の死体が運び込まれていた。善次は磔になって殺されたらしい。村の住人の信仰は明治期にはカトリックに戻ったが、「はなれ」では独自の信仰へと変貌していた。男と神父が「はなれ」へ行くと住人たちは消えて、重太という老人が一人いるだけで、皆で善次を殺したと言う。驚く男たちの前に稗田が現れ、「はなれ」の異伝を説く。神は「あだん(アダム)」と「じゅすへる(ルシファー)」という二人の人間を作り、アダムは「知恵の木」の実を食べて楽園を追われ、じゅすへるは「生命の木」の実を食べて不死になり神に呪われて「いんへるの」に引き込まれたという。「はなれ」の住人たちはじゅすへるの子孫で、皆痴呆ではあるが死ぬことはなく代々どこかへ消えて行った。そのとき、善次の死体が教会から消えたと報せが来て、重太が逃げ出す。稗田たちが重太を追いかけて洞窟に入ると、「はなれ」の礼拝所らしき場所で、「三じゅわん(三人の聖ヨハネ)」が立っていた。彼らの足元には巨大な空間「いんへるの(地獄)」が広がり、その底には呪われた「じゅすへる」の無数の子孫たちが苦しみにうごめいていた。重太(ユダ)は三人に救いを請う。そのとき三日経って復活した「善次(ぜずす=イエス)」が現れ、「みんな、ぱらいそ(天国)さ、いくだ!」と叫ぶと、地下でうごめいていた人々は皆光となって天空に吸い込まれていった。
原作は、村に来る男(氏名不詳)と稗田の役割がカブってしまうところがある。31ページの短編なので仕方がないが、説明が多く展開が速い。映画では、村に来る男を女に変え、七歳の時村で神隠しに遭ったという設定になっている。
映画の舞台は1972年。民俗学専攻の大学院生・佐伯里美は渡戸村を訪れる。小学一年生のとき村の親戚に預けられていた里美は、友だちになった少年・新吉と共に神隠しに遭い、そのときの記憶を失っていた。断片的な夢に誘われて渡戸村へやって来たのだ。そこで村に伝わる聖書異伝を調査に来た考古学者・稗田と出会う。翌日、「はなれ」の住人・善次が磔の刑にあったような死体で発見される。里美と稗田は長老や寺の住職たちから話を聞き、昔から村では子供たちが神隠しに遭っていたことを知る。そして、16年前に里美と共に神隠しに遭った新吉が、当時の少年のままの姿で見つかる。
この神隠しにまつわる物語が追加され、謎めいた雰囲気とホラー的な演出が強くなっている。ただ、なぜ神隠しが起こるのか、なぜ女だけが帰還するのか、なぜ神隠し中は年を取らないのか、なぜ最後に皆帰って来たのか、一応の説明はあるが、はっきりとはわからない。原作にはない設定なので、やはり無理があるのかと思えてしまう。ラストのイエスの復活から昇天に至るシーンは、よくぞ原作に寄せて映像化したとは思った。

ごろねこの本棚【35】(5)

  • ごろねこ
  • 2023/12/10 (Sun) 19:49:48
『鮫肌男と桃尻女』(望月峯太郎)
講談社・1994年6月9日刊・B6判

望月峯太朗作品は、私の印象では最初の長編『バタアシ金魚』から『ドラゴンヘッド』まで、より高みを目指して荒々しく疾走している感があった。その疾走は『ドラゴンヘッド』でゴールを走り抜けた気がして、一区切りついた。その後、作者は新たなクルージングに出かけて、「望月ミネタロウ」と名を変えたりしながら作品を発表し、どこか遠くを目指しているのか、迷っているのかはわからないが、山本周五郎の小説を借りて『ちいさこべえ』という佳作も生み出している。『鮫肌男と桃尻女』は『ドラゴンヘッド』の直前に描いたバイオレンス作品で、連載当初は『大車輪』というタイトルだったらしい。
両親の死後、世話になった叔父の山のホテルで働く桃尻トシコは用事で郵便局へ行く途中、組織の金を持ち逃げして追われている鮫肌黒男という男を偶然にも助け、車に乗せる。それは運命的な出会いとなり、二人は互いに恋に落ち、体の関係を持つ。トシコは偏執的な叔父の許から離れ、組織の連中から逃げる鮫肌について行く決心をする。鮫肌を追うのは、幹部で元々鮫肌とは反りが合わない田抜、女幹部で鮫肌と愛憎関係にある蜜子、鮫肌を兄貴と慕っていた河豚田の三人と組員が十数人ほど。彼らの追撃をかわして、一度は東京まで逃げるが、山荘に置いてきた車を逃走資金に換えようと、二人は山へ戻る。だが、山では嫉妬に狂った叔父にトシコは襲われ、鮫肌も田抜たちに見つかる。死闘の末、辛うじて生き残った鮫肌の頭に銃を突きつける田抜、その田抜の頭に銃を向けるトシコ、だが田抜はもう片手でトシコの喉元にナイフを突きつける。動けなくなった三人のシーンに続き、山荘のガレージから車が出て行くシーンで終わる。
この車には生き延びた鮫肌とトシコが乗っているのか、それとも誰か別人が乗っているのか、そこを読者の想像に委ねている。おそらくひたすらバイオレンスな男女の逃避行を描くという作品なので、結末はどうでもいいのだろう。だが、こうしたラストにしたことで余韻は深くなった。
私が一番気になったのは、鮫肌の飼っているドーベルマンのジョン・ウーという犬のこと。鮫肌たちが山に戻って来たとき、車の中にいたジョン・ウーはトシコの叔父に猟銃で撃たれてしまう。その後、叔父はトシコの逆襲に遭い、傷を負って山中をさまようが、現れた血だらけのジョン・ウーに襲われる。叔父もジョン・ウーも死んだということなのだろうが、はっきり描かれていないのでもどかしい。ジョン・ウーは生きていて、ラスト・シーンのガレージから出て行く車の窓にでも姿が見えれば嬉しいのだが。でもそうすると鮫肌たちが生き延びたことがはっきりしてしまうからだめか。

ごろねこの本棚【35】(6)

  • ごろねこ
  • 2023/12/14 (Thu) 20:01:46
『鮫肌男と桃尻女』(監督・石井克人、出演・浅野忠信)
東北新社・1999年2月公開・2000年DVD発売

映画は、シンプルな原作に様々な脚色がなされているが、とくに登場人物たちが原作以上に奇人変人だらけになっている。また、石井克人監督はクエンティン・タランティーノ監督のファンらしく、組員たちが本編とは無関係のおしゃべりをしているところなど、いかにもタランティーノっぽい演出が窺われる。
叔父のホテルに勤めている桃尻トシコは、郵便局で強盗事件に遭遇する。その二年後から物語は始まる。
偏執狂的にトシコを束縛する叔父から逃げようと、トシコはホテルを車で脱出する。その途中の山道で、鮫肌を追っていた組織の車に体当たりして偶然に鮫肌を助ける。鮫肌は組織の金一億円を横領して逃げていたのだが、トシコも巻き込まれて一緒に逃げるはめになる。鮫肌役は浅野忠信、トシコ役は小日向しえ。
二人を追う組織の田抜役は岸辺一徳。原作よりはクールだが、ホーロー看板を集める趣味を持つ。河豚田(ふぐた)という男は出ないが、「ふくだ」という凶暴な男に鶴見辰吾。またその姉らしき女が「ふくだみつこ」といい真行寺君枝が演じているが、これが原作の「蜜子」に相当する。原作にはいないが鮫肌の先輩の沢田役に寺島進。他にも、組員は津田寛治、堀部圭亮、田中要次など、知られた役者が多い。また、トシコの変態的な叔父役は島田洋八。トシコが駆け落ちしたと誤解した叔父から相手の男を始末するように依頼された殺し屋・山田に我修院達也(旧名・若人あきら)。山田は原作にはないキャラだが、奇人変人だらけの登場人物の中でも際立った奇人変人ぶりであり、最も印象に残る人物になっている。
逃亡するうちに鮫肌とトシコは惹かれ合い、鮫肌は二人で海外へ逃げようと考え、知り合いの男から偽造パスポートを入手する。だが、男は沢田と繋がっており、沢田がトシコを連れ去る。だが、沢田はなぜか途中でトシコを逃がし、代わってトシコを捕まえた山田が叔父の許へと連れて行く。叔父のホテルには組織の連中が滞在しており、トシコが組織に捕まったと思った鮫肌が現れ、捕まってしまう。組員らに痛めつけられる鮫肌を見て、戦ったとき惚れてしまった山田は、鮫肌を救出しようとする。激しい銃撃戦の中、辛うじて生き残った鮫肌、そして田抜とトシコが原作と同じように森の中で三すくみに状態になる。
原作はその後どうなったか曖昧のままラストシーンに続くが、映画ではそこに現れた瀕死の叔父がトシコの男だと思って田抜を射殺する。さらに、二年前の郵便局強盗は沢田が犯人、鮫肌が銃で撃たれる被害者を演じて金を奪ったが、その際、被害者の鮫肌を助けようとしたのがトシコだったと鮫肌たちは気づく。そしてさらに、原作では組織の金を奪った鮫肌を幹部の田抜率いる連中が追うという話だったが、映画ではおそらくこうした銀行強盗などは田抜の指示で行なわれており、得た金は田抜の許へ収めるはずなのに鮫肌が奪ってしまった。だから田抜が執拗に追い、沢田は途中で嫌気がさして組織から抜けてしまったのだろう。
映画は、原作に設定やキャラなどいろいろ追加・変更しており、ラストも異なる。それでも原作を好きな私が楽しめたのは、映画に原作に対するリスペクトがあるからなのかも知れない。

ごろねこの本棚【35】(7)

  • ごろねこ
  • 2023/12/17 (Sun) 20:07:01
『ゴルゴ13(1)(222)』(さいとうたかを、さいとう・プロ作品)
小学館・(1)1970年1月1日号、(222)2024年1月13日号・B6判

先日、『ゴルゴ13』の222巻を買った。上記の日付けは雑誌の号数であり、実際の発売日は号数の1カ月前になる。『ゴルゴ13』はいくつかのシリーズで刊行されているが、私が買っているのはこの「別冊ビッグコミック」版である。1巻からしばらくの間は「ビッグコミック臨時増刊号」の名称で巻数(号数)表記はなかった。このシリーズが本誌掲載から最速(といっても1~3年後)で刊行されるが、雑誌扱いなので買いそびれないように注意が必要だ。この後、さらに1年後にB5判の「ビッグコミック増刊」のシリーズが刊行され、さらに1年後にリイド社の単行本が刊行される。ただ、収録作品は同じではないので、作品によって収録される時間差は変わる。他にテーマ別再編集のコンビニ版「My First BIG」シリーズもある。昔は文庫版やハードカバー版のシリーズも出ていた。
ともあれ、222巻も刊行されている作品は『ゴルゴ13』の他にはない。年数にして50年以上買い続けていることになる。もっとも作者さいとう・たかをは2021年9月に亡くなったので、それまでの「さいとう・たかを/さいとう・プロ作品」の表記が「原作さいとう・たかを/さいとう・プロ作品」に変わっている。さいとう自身が担当していたのは作品の構成と構図であり、絵に関しては主要人物の顔をペン入れしていたと(昔、TV番組「情熱大陸」で)言っていた。ゴルゴの目しか描いていないという噂は嘘である。以前『ごろねこ』で検証したが、年月を経ているわりにゴルゴの顔は意外と変わっていない。さいとう自身が作家として成熟期に入っていたからと思われるが、さすがに2000年代になると、462話「ドナウ・ライン迷路」など『ゴルゴ13』のパロディのような絵のときがあった。代筆だったのかさいとうの体調が悪かったのか、何か理由があったのだろう。現在、ゴルゴの顔だけはさいとうのタッチで描くのが難しいので、膨大な表情のストックの中から、ふさわしいものをトレスして使っているそうだ。
第1巻には、第1話「ビッグ・セイフ作戦」、第4話「色褪せた紋章」、第3話「バラと狼の倒錯」、第7話「ブービートラップ」が収録されている。このように発表順の収録ではないので、それぞれのシリーズで収録話が異なるのである。また、何らかの作品内容の事情によって初出以外の発表を自粛している単行本未収録作が数話ある。2000年に『ゴルゴ学』が刊行された時点では、本誌237話、245話、266話、増刊32話の4話がタイトルも不明で単行本未収録と書いてある。熱心な『ゴルゴ13』ファンなら初出誌を持っているだろうが、私は持っていない。探して読もうという意欲はないが、どういう事情で自粛しているのかは気になるところだ。第222巻には、第611話「逆心のプラントアカデミー」ほか2話が収録。「逆心の…」の発表が21年10月なので、この作品まではさいとうが執筆するか目を通すかはしていたかも知れない。この作以降、さいとうがまったくタッチしていない『ゴルゴ13』になってしまうわけだ。そういえば、さいとうは、『ゴルゴ13』の第1話を描いたあと作品のパターンを考えたところ10ぐらいしかなかったと述べていた。その段階で最終回の話は完全に出来上がっていたそうだ。結局は10のパターンを繰り返し描いているそうだが、いつかさいとうが考えていた最終回を読むことができるのだろうか。

ごろねこの本棚【35】(8)

  • ごろねこ
  • 2023/12/21 (Thu) 20:35:19
『ゴルゴ13』(監督・佐藤純弥、出演・高倉健)
東映・イラン映画提携作品・1973年12月公開・2012年DVD発売

『ゴルゴ13』を東映で映画化する話があったとき、さいとう・たかをは乗り気ではなかったが、元々ゴルゴに高倉健をイメージしていたので、高倉健主演でオール海外ロケならいいと答えたところ、それが通ってしまって映画化されたという。脚本はさいとうがちゃんとシナリオ原稿として書いた(映画には「脚本/さいとう・たかを、K・元美津」とクレジットされている)そうだが、映画になったらまったく違ったものができてびっくりした、と述べている。全編イランでロケをして、高倉以外すべて外国人俳優を使っている(声は高倉以外すべて日本語吹き替え)ので、なかなか脚本通りに撮れなかった面もあると思うが、そもそもさいとうと監督とのゴルゴに対する認識が違っていたのだろう。監督は、世界を股にかけて活躍する一匹狼のスナイパー、ぐらいの認識で見ていたのではないだろうか。
ゴルゴ13の今回のターゲットは国際犯罪組織のボスであるマックス・ボアという男。ボアがイランにいると情報があり、某国秘密警察が逮捕しようとするが、捜査員はことごとく殺され、最後の手段としてゴルゴにボア暗殺を依頼したのだ。ただボアには多くの影武者がいて、部下でさえ素顔を知らないという。また、ボア一味もゴルゴがテヘランに入ったと知り、ゴルゴを追う。ゴルゴは、ボアのアジト情報と、ボアが小鳥の愛好家である情報を得るが、情報屋が一味に殺され、容疑者としてテヘラン市警に追われることになる。また、テヘランでは女性の誘拐事件が多発しており、市警のアマン警部の妻も誘拐される。アマン警部はゴルゴを見つけ、滞在するホテルを急襲するが、ゴルゴは逃亡する。市警はボアの一味が誘拐した女性たちを海外に売り飛ばそうとしていることと、女性たちを別のアジトに移そうとしているという情報もつかむ。その頃、ゴルゴはボアのアジトを探り当て、肩に小鳥を乗せた男を狙撃するが、それは影武者を身代わりにした罠で、ゴルゴは殺し屋たちに捕まってしまう。だが隙をついて、殺し屋を返り討ちにする。
別のアジトへ向かうアマン警部たちを殺そうと、ボア一味は道路に多くの地雷を仕掛けたが、ゴルゴが狙撃して地雷をことごとく爆破する。アジトに着いたゴルゴは朝食をとるボアを狙うが、その席には大勢の影武者もいた。ゴルゴは鳥籠を撃って、籠から出た鳥が懐く男をボアと見て狙撃しようとするが、部下たちに追いつかれ狙撃できなかった。ボアはゴルゴをおびき出そうと、姿を現わさなければ女たち一人ずつ殺すと脅し、秘密警察の連絡員だった女が最初に殺された。そのときアマン警部が現れ、妻を含む人質を救おうと突進して解放に成功するが、彼自身は銃撃を受け息絶える。ゴルゴは逃げ出したボアを自動車で追うが、部下のヘリコプターに攻撃される。何とかヘリコプターを撃墜するものの、自動車は破壊され、ゴルゴは一人砂漠地帯に取り残されてしまう。数日後の夜明け、湖畔の隠れ家のテラスで朝食をとっていたボアは狙撃を受けて死ぬ。対岸には砂漠地帯を歩いて抜けて来たゴルゴの姿があった。ゴルゴは、息絶えたボアに近づく小鳥も狙撃する。
元々が高倉健のイメージから生まれたゴルゴ13なので、とくに初期の頃の原作を見ると、高倉健が演じるのに違和感は少ない。ただ、どうしてもゴルゴ13はこういう表情はしないだろうとかこんな行動はとらないだろうとかいったことが気になる。海外ロケで外国人が吹き替えで喋っているのも、かえってチープな感じがする。いくら原作が面白いといっても、実写映画で表現するには何か一つ映画独自の面白さがなければならないのだろう。余談だが、この映画が公開された頃、ゴルゴ13を演じるのはプロレスラーの坂口征二がいいと言っていた友人がいたことを思い出す。私には判断がつきかねるが。

ごろねこの本棚【35】(9)

  • ごろねこ
  • 2023/12/26 (Tue) 20:36:11
『ゴルゴ13/九竜の首』(監督・野田幸男、出演・千葉真一)
東映京都・嘉倫電影合作・1977年9月公開・2017年DVD発売

これも一部を除いてほとんど香港ロケで、日本人俳優以外はすべて日本語吹き替えとなっている。香港公開時は、すべて広東語に吹き替えられたそうだ。千葉真一は熱血漢のイメージが強く、ゴルゴ13は合わないように思えたが、かなり原作のゴルゴに寄せた演技をしている。あるいは、原作の『九竜の餓狼』を中心に、いくつかのエピソードを組み込んで作ったストーリーなので、原作で読んだゴルゴの姿が重なるのかも知れない。B級アクション映画としては、高倉健版よりは面白かった。前作は高倉健の趣を見るだけの映画だったが、こちらはアクション映画として楽しめるのだ。元々「劇画」がB級アクションと相性がよかったことを思い出させてくれる。
マイアミにいる麻薬シンジケートのボス、ロッキー・ブラウンは、ゴルゴ13にシンジケート香港支部長の周雷鋒の暗殺を依頼する。周が麻薬を横流ししていることを知って、香港に殺し屋を送り込んだがすでに3人の殺し屋が返り討ちに遭っていた。一方、3件の殺人が同じ手口であり、麻薬密売ルートの頂点にいる周と関係があると考えた香港警察の主任刑事スミニ-は、表向きは実業家の周の身辺を捜査する。だが、潜入捜査していた部下の女刑事が殺される。
香港にやってきたゴルゴは、プール開きの祝典で主賓の周を狙撃しようとするが、何者かに先に周を射殺されてしまう。ブラウンの依頼に間違いがないことを確かめたゴルゴは、香港のシンジケートには真のボスがいて周を操っていたが、周が警察に目をつけられたと知って始末したと知る。ゴルゴの新たなターゲットは、真のボス、東欧ポーラニア国の香港領事ポランスキーだった。身の危険を感じたポランスキーはFBIにシンジケート情報と交換にアメリカへの亡命を求めていた。ゴルゴはまた、周殺しの犯人として警察に逮捕される。スミニ―には以前警護していた要人をゴルゴに暗殺されたという因縁があった。証拠不十分で釈放されたゴルゴだが、ポランスキーの雇う暗殺集団に襲われ、倒しはするものの負傷する。ポランスキーはFBIの迎えが来るのを、要塞のような島で待っていた。彼の正体を知ったスミニ―はポランスキーと彼を狙うゴルゴを捕まえようと、部下たちと共に島を襲撃し包囲網を敷く。だが、スミニ―たちの目を逃れ、ポランスキーはヘリコプターで島を脱出してしまう。が、そのとき、ゴルゴ13の撃った銃声が響き、眉間を撃たれたポランスキーが海へ落下する。
刑事スミニ―役は香港のスター、嘉倫(ステファン・リュン)。どれほど人気スターだったかは知らないが、共同製作の嘉倫電影の社長らしく、出番が多く、展開上かなりスミニ―に花を持たせている。そこがちょっと気になった。

ごろねこの本棚【35】(10)

  • ごろねこ
  • 2024/01/08 (Mon) 19:48:24
『スカルマン』(石森章太郎/石ノ森章太郎)
〔画像・上段左から〕講談社「週刊少年マガジン」1970年第3号掲載扉・B5判/メディコム・トイ・1997年刊・B5判/メディアファクトリー(SHOTARO WORLD)・1999年4月1日刊・A5判
〔画像・下段左から〕大都社・1977年5月10日刊・B6判/講談社・1997年8月22日刊・新書判(P-KC)/講談社・1970年7月10日刊・新書判(KC)/角川書店(石ノ森章太郎萬画大全集)・2006年2月22日刊・B6判

『スカルマン』については前にも書いたことがあったが、もう一度まとめておこう。1967年から、石森章太郎は「少年マガジン」に連載作品とは別に長編の読切まんがを年に1作ほど描いていた。私は、67年に2週にわたって発表した『そして…だれもいなくなった』がいかにも実験作品好きな石森らしくて好きだが、キャラクターとしては70年の『スカルマン』が圧倒的に印象に残り、1回の読切で終えるには惜しいキャラクターに思えた。それは、石森自身も思ったらしい。『スカルマン』発表後、半年から1年ほど経って、石森のもとに「仮面をつけたヒーローもの」というTVの話があり、『スカルマン』を思い出して「ドクロの仮面をつけたヒーロー」を提案したそうだ。だが、食事の時間帯の番組にドクロは困るということで、仮面が似ている昆虫(バッタ)にして『仮面ライダー』が誕生したとのこと。『黄金バット』もドクロの顔で食事の時間帯の番組だったが、アニメだからよかったのだろうか。『黄金バット』に比べたら『スカルマン』はまったくドクロには見えないと思うが。『仮面ライダー』も初めは「気持ちが悪い」といわれたという。『スカルマン』は「怪奇ロマネスク劇画」と銘打たれていて、TVもホラーを意識した企画だったらしい。それを継承した『仮面ライダー』も初めは暗い内容だったが、人気が上がるにつれて明るくなっていったそうである。
100ページの読切まんがであるにも関わらず、『スカルマン』を表題とした単行本が6種も刊行されているのは、やはり『仮面ライダー』の原点となった作品だからだろうか。
女優殺害、代議士秘書の交通事故、貨物列車転覆、電子工業研究所の爆破火災、一見何の繋がりもない事件事故のようだが、これらはスカルマンと名乗る仮面の男と、彼の連れる変身人間ガロという怪物によって起こされていた。それを見破るのは、15年前から一人の危険人物を追いかけていた興信所所長・立木。当時3歳だった子供は今や18歳となったが、2,3年前からスカルマンと名乗って殺人を繰り返していたのだ。あるとき、立木の許を訪れた神楽達男という男が、新たな所員となる。達男はヤクザ神楽組の若親分だった。だが、じつは達男は15年前に神楽家に引き取られた養子で、彼こそがスカルマンだと、立木は知る。達男もまた両親を殺した犯人を探して、立木に近づいたのだ。武装隊を連れて達男を包囲する立木だが、達男はガロに迎え撃たせ、催眠能力で立木の黒幕が財界の大物「千里虎月」だと知る。立木を殺し、虎月の屋敷へと向かう達男。今まで黒幕の正体を知るために黒幕に繋がる人物は誰でも見境なく殺して来たのだ。ようやく今、達男は虎月とその孫娘・麻耶と対面した。だが、虎月が達男の祖父で、麻耶は妹であると知り、達男は動揺する。達男の両親はミュータントともいうべき天才的頭脳を持ち、人類を滅ぼしかねない研究や実験をしていたことに虎月は恐怖を感じ、二人を殺したという。だが、達男は両親が作ったガロに連れ去られてしまい、虎月はその行方を立木に追わせていたのである。虎月と麻耶を追って達男とガロが部屋に入ると炎が噴き出し、虎月が「死のう、みんなで…。わしらは生まれて来る時代を間違えたのじゃ」という言葉と共に四人は業火に包まれた。

ごろねこの本棚【35】(11)

  • ごろねこ
  • 2024/01/09 (Tue) 19:43:03
『スカルマン THE SKULL MAN(1)(2)』(島本和彦、原作・石ノ森章太郎)
メディアファクトリー・(1)1998年11月1日刊(2)1999年1月1日刊・B6判

1998年4月に創刊した隔週刊誌「コミックアルファ」は、予定では石ノ森章太郎が描く『サイボーグ009』の「完結編」と、石ノ森原作で島本和彦が描く『スカルマン』の続編が同時連載となるはずだったが、石ノ森章太郎が98年1月に逝去したため、『スカルマン』だけの連載となった。前年に島本は、石ノ森がスカルマンを島本に「やる」と言ったと聞いて二つ返事で執筆を引き受け、前作以降のストーリーのプロットを聞き、その素晴らしさに自分に描けるのかと自信がなくなったと述べている。また一説には、石ノ森から構想を聞き、「きっちり原作書くから」と言われて安心し、描くことを願い出たものの、石ノ森から送られて来たのは簡単なメモが三枚だけで、これでどうやって描くのかと島本が泣いたともいわれている。実際、この続編にどの程度石ノ森の構想が入っているのかはわからないが、オリジナルのラストで炎に包まれた四人はガロの力で助かる。スカルマンは神楽達男ではなく、本名の千里竜生に戻っている。前は竜生(たつお)を一般的な達男に変えていたが、そこは「りゅうせい」と名乗っている。
さて、オリジナルの『スカルマン』を原点として『仮面ライダー』が生まれ、スカルマンは仮面ライダーに、人造人間ガロはショッカーの怪人たちに生まれ変わり、敵は悪の秘密組織ショッカーだった。この続編では、悪のヒーローだったスカルマンは、悪の秘密結社と戦うヒーローに変わった。その組織のボスは、両親の助手だったラスプーチンという男で、竜生と同じ能力を持ち、改造人間を作って世界征服を目論んでいる。この続編『スカルマン』は、『仮面ライダー』のパラレルワールドにもなっており、『仮面ライダー』がオーバーラップしている。たとえばラスプーチンによって改造人間バッタ男にされた飛岡剛という刑事は、倒れたところを竜生に助けられ仮面ライダーに変身できるよう強化改造される。ラスプーチンを倒すのはスカルマンではなく、この仮面ライダーである。また、神楽組の組員の綾瀬五郎という男は竜生の友人だが、ライバルでもあり、自ら改造手術を受けてサソリ男となる。『仮面ライダー』でも本郷猛の親友であった早瀬五郎がサソリ男となる。
このように続編『スカルマン』は、ある意味『仮面ライダー』の話を内包してショッカーならぬラスプーチンを倒すのだが、じつはラスプーチンを操る黒幕がいて、それは生きていた竜生の両親だったのだ。その後の戦いを予感させながら、物語は終わる。(全7巻)
さて、2007年からTVアニメで『スカルマン』(全13話)が放映され、そのまんが版をMEIMUが描いて配信された。私はアニメもまんがも見ていないが、これまでの『スカルマン』とは舞台も登場人物も異なり、まったくの別物となっている。

ごろねこの本棚【35】(12)

  • ごろねこ
  • 2024/01/10 (Wed) 20:02:23
『スカルマン THE SKULL MAN 闇の序章』(監督・富士川祐輔、出演・鈴木亜美)
フジテレビ・2007年4月21日放送・2007年9月DVD発売

2007年4月28日からTVアニメ『スカルマン』全13話が放送された。舞台は、第二次世界大戦後の現実とは違う歴史を辿った昭和40年代の日本。南北に分断された日本の、かつては小さな山村にすぎなかった地域に、国家的大企業である大伴コンツェルンが進出し、大規模に開発して「影の首都」と呼ばれるほどの企業都市・大伴市が生まれる。市は治外法権となり、市民に行動制限を課していた。そしてグループに属する大伴薬品生化学研究所は獣人(GRО)を作り出すガ號計画を行なっていた。市内では、人々が不慮の死を遂げる事件が多発していたが、実は彼らはガ號(GRО)であり、事件現場ではドクロの仮面を被った「骸骨男」が目撃されていた。
といったような設定から始まるが、骸骨男(スカルマン)の偽者が登場したり、本物が死んで二代目に受け継がれたり、獣人(GRО)の他にサイボーグ兵士が登場したりする。また骸骨のマスクは、GRОの最終形態である新人類の超能力を制御するためのものであることもわかる。全13話のわりに話が複雑なように思えるが、私は見ていないのでわからない。MEIMUのコミカライズ版は全2巻。
さて、このアニメ版の放送が始まる前の週(2007年4月21日)に、序章として実写特撮ドラマが放送された。実写ということだったので、この序章だけリアルタイムで見た。当時、設定の説明もなく話はよくわからなかったが、スカルマンがかなりスタイリッシュになっていたことは覚えている。それもそのはず、アニメのプロモーション用に作ったスーツが好評だったため、この実写版が企画されたそうだ。急遽製作が決まったせいか、30分枠1回限りではロケハンや大道具の製作をできなかったせいか、あるいは架空の世界観を出すためか、この作品の背景はすべてCGで表現している。撮影は全編グリーンバックだけのスタジオで行なわれたという。ストーリーは、謎の男スカルマンが一人のガ號(獣人)を倒すエピソードで、出演は鈴木亜美と細川茂樹。
大伴製薬の生化学研究所に勤める高明寺倫子は、研究員・小角弘志との結婚を控えて幸せなはずだったが、ドクロの仮面をつけた怪人に襲われる悪夢に悩まされていた。そんなとき、弘志から、二人の幸せのためにある計画への協力を頼まれる。それは金庫から書類を盗み出し、ある組織に渡すことだった。倫子はとまどいながらも「ガ號計画書」という書類を盗み出し、弘志と共に逃げる。だが、二人の行動はばれており、大伴のエージェントたちに追いつめられる。じつは弘志は計画書の他に倫子をも組織に売ろうとしていた。倫子は彼女自身も知らない間に「ガ號」へと改造されていたのである。だが、弘志が降伏しようとしたとき何者かの銃弾に倒れ、倫子のペンダントを引きちぎる。ペンダントは変身する鍵だった。倫子は獣人へと変身し、エージェントたちを全滅させるが、そこに現れたスカルマンによって倒される。倫子は弘志に抱かれた夢を見ながら息絶える。

謹賀新年

  • 2024/01/04 (Thu) 18:20:34
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

最近、「とやま潤」の「絵」が何気にそそられてしまいます。

あと、HP作成時から気になっていた「永樹凡人」の単行本を初めて手に入れることが出来ました。超うれしかったです。シリーズ6を手に入れたのですが・・・他にあるかは不明です。

二人の漫画家さん、ご存じでしょうか???

Re: 謹賀新年

  • ごろねこ
  • 2024/01/04 (Thu) 20:23:35
あけましておめでとうございます。

新しい作家を開拓しているとはすばらしいですね。
私などは今まで読んできた作家もだんだん減らして、読まなくなっています。

「とやま潤」という名は多分貸本で見たことがあるような気がしますが、読んだことはないですし、作品はまったく知りません。
「永樹凡人」はアニメのほうで名前を見かけますが、まんがを描いていたとは知りませんでした。もっとも平川やすしにしてもまんがからアニメに行ったわけですし、そういう作家は多かったのでしょうね。

私も失いそうな気力をふり絞って、せめて買ったまんがぐらい読まなくては(笑)。

今年もよろしくお願いします。

謹賀新年<2024>

  • ごろねこ
  • 2024/01/01 (Mon) 07:49:36
あけましておめでとうございます。
当サイトをご覧いただき、ありがとうございます。

「ごろねこ通信」は昨年1度も更新できませんでしたが、
近日中に更新したく思っています。
「新刊まんが情報」は月に1度更新しています。
掲示板の「ごろねこの本棚」は、
週に1回ぐらいは更新したく思っていますが、
3月頃からしばらくは更新をお休みします。

たまに覗いていただければ嬉しく思います。
今年もよろしくお願いします。

ごろねこ

Re: 謹賀新年<2024>

  • なかの
  • 2024/01/02 (Tue) 04:29:59
ご無沙汰してます!
って覚えられてないかも、、汗
楽しみに閲覧してますよー
今年もよろしくお願いします。

Re: 謹賀新年<2024>

  • ごろねこ
  • 2024/01/04 (Thu) 09:28:54
なかのさん……、はて?

いやいや、まだそこまでボケてはないです。
どうもお久しぶりです。

サイトはもはや
たまに独り言をつぶやく場と化していますが、
どなたかに読んでいただいていると思って、
何となく続けています。

何となく読んでいただけたら嬉しいです。



ごろねこの本棚【34】(1)

  • ごろねこ
  • 2023/09/25 (Mon) 20:17:43
『去年の雪』(村岡栄一)
少年画報社・2023年9月刊・A5判

新刊なので、「ごろねこ通信」の方に書くべきだが、「ごろねこ通信」をいつ更新できるかわからないので、こちらで紹介しておく。「新刊情報」を更新したとき、この本の刊行予定を知った。「村岡栄一」は永島慎二のアシスタント(内弟子)を経てまんが家になった人で、「CОM」でデビューし、その頃、同人活動の記事などでも時折り名前を見かけていた。何よりも永島慎二の『若者たち』の主役「村岡栄」のモデルになった人物である。まんが家になってからは、麻雀やパチンコを題材にした作品が主らしく、私は読んでいなかったのだが、たとえば、2008年に刊行された永島の『フーテン』の別冊小冊子に載る昔の弟子たちの鼎談などで名前は見ていた。その村岡栄一が、歳を重ね、もう逢えなくなってしまった人たちとの忘れられない交流を描いた作品だという。これはぜひ読みたいと思い、購入した次第である。この作品は、2015年からpiⅹivコミックで発表していたのだが、2021年に作者が病に倒れて執筆を続けられなくなった。そこで、編集者である娘さんがコミティア(同人誌即売会)で頒布していたが、それを今回、1冊にまとめて刊行となったとのこと。
6話から成り、1話は父親の妹である「キヨおばちゃん」にまつわる作者の幼い頃の思い出。2話は作者が中学生のときに家を出て行った父親の話。3話は同人サークルで知り合った岡田史子との思い出。作者が永島慎二のアシスタントから独立した頃の交流を中心に描く。4話は、病身の母が療養所から一時帰宅した日、祖母の家に行った母を追って、中学生の作者は峠道を越えて母に会いに行く。5話は、作者がまんが家として独立したての頃、一晩だけ頼まれて滝田ゆうの仕事を手伝ったときのこと。6話は、永島の内弟子時代、作者と向後つぐおが売れっ子の川崎のぼるの手伝いに行く。そこで知り合ったKと意気投合し、また会って話をしようと約束するが、Kは病気で郷里に帰って死んだと聞く。
さらに、7話で永島慎二を描く「先生」、8話で優しかった弟を描く「おとうと」を予定していたという。また、昔から親しくしていたまんが友だちのことも描くつもりでいたが、病に倒れ、無念の結果になってしまった、と作者は述べている。読者からしても描き続けてほしかったと残念な思いだが、この6話までだけでも読めてよかった。今まで村岡作品を読んでこなかった私が言うのも口幅ったいが、さすが永島慎二の弟子だと褒めたたえて、一人でも多くの人にこの本を薦めたい。6話の終わりに、「あれから50年近い歳月が流れて…、いまでも時々K君の笑顔を思い出すことがある」とある。「50年」という数字には驚くが、私自身も50年前の思いがふと胸に過ぎることがある。世の無常を実感する年齢の人には、この作品がより深く沁みると思う。
「去年の雪」のタイトルは、過去の家族や友人知人との交友を、去年降った雪にたとえ、美しかったがもう消えてしまって二度と見ることはできない、という気持ちをこめたものだろう。あるいは、大江匡房の「道たゆといとひしものを山里にきゆるはをしき去年(こぞ)の雪かな」に、冬には道が途絶えるので厭っていた雪とあるように、「雪」は美しいだけとは限らない。たとえば、父親に対する気持ちのように当時は嫌っていたり、アシスタント時代に先の見えない不安に怯えたりしていても、振り返ってみれば愛しく感じるという思いもタイトルには含まれるのだろう。

ごろねこの本棚【34】(2)

  • ごろねこ
  • 2023/10/01 (Sun) 19:53:16
『黄金バット 大正髑髏奇譚(1)』(山根和俊・神楽坂淳・黄金バット企画・ADK)
秋田書店・2023年8月刊・B6判

これも新刊。「黄金バット」のタイトルを見て、条件反射的に購入してしまった。
黄金バットの姿や敵の名前などは過去作を踏まえているが、ストーリーはもちろん、黄金バットのキャラも過去作とは異なる。昔の設定ではあまりに荒唐無稽な上に古臭いので、新たな設定に変えるのは当然だろうが、何はともあれ、面白くなければしようがない。
大正三年の帝都。ある夜、陸軍の笹倉士郎中尉と月城竜史少尉は任務により、ある女を暗殺しようとするが、女は眉間に笹倉の銃弾を三発受けても、月城に首を斬られても死なず、二人は返り討ちに遭ってしまう。だが、笹倉は帝国陸軍の機械仕掛けの体を得て蘇り、月城は死に際に現われた黄金バットを依り代として受け入れることによって蘇る。女は古代の邪神ナゾーの巫女で星船美月といい、ナゾーの配下を引き連れて帝都の治安を乱していた。星船が銀行を襲う現場に急行した笹倉は配下たちを倒すが、月城はまたもや星船の力に倒されてしまう。だが、そこに現われた黄金バットの眷属マリーと名乗る少女に救われ、生き残っていたナゾーの眷属を倒す。その後、月城たちの許には機械仕掛けの刺客が現われるが、それは陸軍の中にも敵がいるからだった。陸軍は、星船を通して邪神ナゾーに与し、軍部の主導権を握って大陸進出を目論む為我井大佐の一派と、月城を通して黄金バットの力を兵器として用い、戦争によって国益を得ようとする門倉大佐の一派に分かれていた。月城たちは襲い来る機械人形たちを撃退したが、ついに最上位のナゾーの眷属が出現する。その名は「暗闇バット」……。
黄金バットとナゾーとの人間をめぐる戦いは古代から続いてきたが、人間を支配しようとするナゾーに対して、黄金バットは人間の自由に任せ、人間同士の争いには関与せず、それで人間が亡びるなら仕方がないという立場である。従って、黄金バットはナゾー一味とは戦うにしても、どちらも腹黒い帝国陸軍の二派とは戦わないことになる。かつて人間を滅亡させたことがあるという黄金バットは、やはり死神なのか、それとも救世主になるのか、今後の展開を期待したい。

ごろねこの本棚【34】(3)

  • ごろねこ
  • 2023/10/04 (Wed) 20:01:36
『小説 黄金バット』(加太こうじ)
筑摩書房・1990年8月30日刊・四六判

『黄金バット』については、【10】(1)~(7)で紹介したのだが、その項はもうとっくに流れて消えている。そこで、新作を紹介したついでに、もう1度『黄金バット』について振り返っておこう。
この本は、まんがではなく小説である。といっても「黄金バット」が活躍する物語を描いた小説ではない。紙芝居の「黄金バット」が誕生した昭和6年、東京の裏街を舞台に、紙芝居屋とその関係者を中心に講釈強盗の事件を絡めて描いた小説である。一応フィクションなのだが、実際の事件・出来事や実在の人物をモデルにしており、『黄金バット』が誕生した経緯はわかる。その部分を抜き出してみよう。
紙芝居は、元は写し絵といって幻燈からきたものだったが、明治時代の中頃に紙人形の芝居に変わったという。それが、子供の教育のためにならない内容が多くなり、警察が禁止したので、困った紙芝居屋が、昭和5年頃に絵物語の紙芝居を始めたところ、大ヒットとなる。その中に『黒バット』という人気作品があった。黒バットは、フランス映画の『ジゴマ』から大泥棒の悪人のヒントを得て、アメリカ映画の『オペラの怪人』をヒントに骸骨マスクに黒マントの服装で、押川春浪の武侠小説『怪人鉄塔』から鉄塔に住み黒マントを翻して空中を飛ぶというキャラを作り出したのだった。紙芝居屋の親方の元で働く男たちが話を考え、絵を描いていた学生アルバイトの永松武雄(健夫)も手伝っていたのだが、子供たちや大人にも、黒バットはいつ捕まるのか、解決編はどうなるのかと期待されるようになった。ところが、黒バットを強くしすぎたため、どうやって終わらせていいかわからず、終わらせても次にこれほど人気が出る作品を作れなければ売り上げに響く。困り果てた親方が、当時知り合った文学青年・鈴木一朗(平太朗)に相談すると、黒バットより強い、神さまのような正義の味方の超人を登場させればいいと簡単に答えた。こうしてできたのが『黒バット・解決編、黄金バット出現』だった。黒バットに勝つのでゴールデンバットにしようとなり、それは庶民に馴染み深い廉価の煙草の名前でもあり、最終的に黄金バットとなった。以後、『黄金バット』のストーリーは鈴木が担当し、永松が絵を担当したという。
なお、永松は昭和7年に工芸学校を卒業して絵描きをやめ、その後を継いで加太こうじが絵を担当するようになった。そして、大人気だった紙芝居の『黄金バット』も昭和9年いっぱいで姿を消したという。

ごろねこの本棚【34】(4)

  • ごろねこ
  • 2023/10/07 (Sat) 19:47:29
『戦中戦後 紙芝居集成』(朝日グラフ別冊)
朝日新聞社・1995年11月刊・A5判変型

『黄金バット』は消えても街頭紙芝居は続いていたが、それとは別に教育に活用される教育紙芝居や、戦争開始と共に戦意高揚を訴える国策宣伝紙芝居などが生まれ、それらは印刷されて普及した。細々と続いていた街頭紙芝居は、子供の疎開や演者の招集によって自然消滅の状態だったらしい。そして、1945(昭和20)年3月の東京大空襲などにより、紙芝居製作所は焼け、戦前の街頭紙芝居(すべて手描き原画であった)もほとんどが消失した。だが、終戦の翌年1月には、加太こうじの新作『黄金バット』がGHQの検閲をパスして、久しぶりに復活することになる。戦後の紙芝居は1949(昭和24)年頃からの4、5年が全盛期だったという。ちなみに私個人の感覚としては、昭和30年代の後半でも、まだ普通に街角や公園などで紙芝居屋の拍子木は鳴っていたし、40年代に入っても紙芝居屋を見かけていたと思う。
さて、主に戦後のものだが、現存する紙芝居を紹介した本が、この『戦中戦後 紙芝居集成』である。もちろん原画の復刻版や演じたビデオなども刊行されたが、あまりに高価なので、私のようにちょっと見てみたいと思う者には、廉価で多数の紙芝居を紹介している本書が役立つ。
『黄金バット』は加太こうじが描いた「ナゾー編」(1回分)「怪タンク出現」(2回分)「怪獣編」(2回分)が掲載されている。1回分の枚数は『小説 黄金バット』に14枚と書いてあったが、本書に載っている作品はほとんど10枚なので、戦前の14枚から、戦後は経費節減で10枚ぐらいになったのかも知れない。ちなみにYОUTUBEに紙芝居の実演映像などがかなり上がっているが、『黄金バット』も素人やプロが演じた映像が何編か上がっている。一つだけ「ナゾー編」に「地底の王国」という本書に載っていない話が続くものがあったが、あとはみな本書の3編のどれかだった。本書に収録の「ナゾー編」とは絵が異なるものもあったが、加太こうじの絵を誰かが真似して描いて複製を作ったのだろう。人気作はこうして複製が作られたと思われる。ただ同じ話でも、演じるセリフや原画の出し入れは多少異なっていた。ともあれ、戦後、『黄金バット』は加太こうじによって街頭紙芝居に復活したのだった。
また、加太こうじは1952(昭和27)年に網島書店から『絵物語 黄金バット』を「蛇王の巻」「巨獣の巻」の全2巻で刊行している。現物を見たことはないが、『別冊太陽 少年マンガの世界Ⅰ』などで書影を見ると、黄金バットは髑髏の顔ではなく、金髪で大仏のような顔をしている。

ごろねこの本棚【34】(5)

  • ごろねこ
  • 2023/10/09 (Mon) 19:29:36
『黄金バット(上・下)』(永松健夫)
少年画報社・1978年1月刊・四六判ハードカバー

永松健夫は、父親に大学を出て紙芝居を描くことを反対されて就職していたが、やはり絵を描くことから離れられず戦中には小学館の美術部に席を置いていたという。そして戦後に復帰し、加太こうじと同じく『黄金バット』を復活させる。ただ『黄金バット』の紙芝居は戦後には3巻(3日分)ほどしか描かなかったそうだ。だが、小学館で同僚だった平木忠夫が仲間と明々社(後の少年画報社)という出版社を起こし、『黄金バット』を単行本として刊行したいと願い、永松はそれに応えて初めてまんが(まんがと絵物語の中間のような形式)として描き、単行本を刊行する。
第1巻「なぞの巻」(昭和22年11月)、第2巻「地底の国」(昭和23年1月)、第3巻「天空の魔城」(同4月)、第4巻「彗星ロケット」(昭和24年3月)の全4巻であるが、話は完結していない。本書は、このうち第3巻分までを上・下2巻で復刻したもの。「表紙および表紙カバーは、初版本をもとにして、丸山元博が模写したものです」とあり、上巻は「なぞの巻」、下巻は「地底の国」の表紙の模写が使われている。また、「地底の国」までは2色刷(「天空の魔城」は1色)で原本の雰囲気を味わえるが、本文も原本をトレスした絵が使われているようだ。
黄金バットの正体はわからないが、敵の「ナゾー」については、加太こうじの戦後の紙芝居では戦前の設定を変えて、ナチスドイツの科学者でベルリン陥落時にスイスへ逃げ、同僚だった日本の篠原博士の持つ破壊光線を奪って、もう一度世界制服を企んでいるとなっている。姿形は、ミミズクのマスクを被り、両手は三本指の鉤爪で、下半身は小型の円盤になっていて移動する。ただし『紙芝居集成』掲載分では下半身がどうなっているかは不明。なぜナチスの科学者がそのような姿になったのかはわからない。一方、永松の本書では、おそらく戦前の紙芝居初期の設定に近いものになっていると思われる。第1巻では怪盗黒バット団の首領であるが、黄金バットの友人(?)蛇王(じゃおう)に倒され、命は助かるものの両足を切断する。三本指になった理由は不明だが、その後、地下国へ行き、みみずくの覆面をして地下国を支配する王者となり、ナゾーと名乗ろう、と決意する。ミミズクは不吉な鳥といわれ、ギリシャ神話では女神デメテルの怒りを買って、アスカラポスがミミズクに変えられてしまうという話があるが、地下=冥界の王になろうということだろうか。ただ、下半身は円盤ではなく、第3巻で魔王星の空魔大王によって新たな足を付けてもらっている。

ごろねこの本棚【34】(6)

  • ごろねこ
  • 2023/10/10 (Tue) 19:33:56
『冒険活劇文庫(創刊号)』(復刻版)
少年画報社・2001年8月刊『少年画報大全』付録)・B5判

永松は(5)の単行本の第2巻を刊行後の1948(昭和23)年8月、明々社が創刊した雑誌『冒険活劇文庫』で絵物語の『黄金バット』の連載を開始する。画像は同誌創刊号の復刻版だが、黄金バットの勇姿が描かれている。『黄金バット』は「アラブの宝冠」の巻で、創刊号から1949(昭和24)年8月号までと12月号の全13回の連載。「黄金バット誕生編」ともいうべき話で、単行本「なぞの巻」のはるか昔の話となる。
大昔、人類に文化の曙が兆し始めた頃、西アジヤのメソポタニヤの沃地に華やかな文明王国を築いていたスメリヤ国があった。そのウル第三王朝のウル・シン王の時代。シン王はよく国を治め、人民を愛し、隣国とも仲良く、人々に尊敬される立派な王であった。だが、彼の異母弟ズルダは、シン王を亡き者にして自分が王位に就こうと野心を持ち、重臣ゴンドと奸計を巡らしていた。シン王が臣下を引き連れて猟に出たとき、どこからともなく一本の矢が王をめがけて飛んで来た。間一髪、その矢を受け止めたのは、供をしていた老臣ヨシヤの子ヨキトであった。暗殺に失敗したズルダは、次は王を毒殺しようと企む。……
第1回にはまだ黄金バットは登場せず、この後の展開も不明である。「アラブの宝冠」は単行本化されておらず、復刻もこの第1回分のみである。だが、『少年画報大全』に12月号のラストに黄金バットの正体が明かされる、とある。残念ながら掲載された写真が小さくて読めず、黄金バットの正体はわからないが、この第1回を読む限り、ヨキトが黄金バットになるのは間違いないだろう。ヨキトがどうして黄金の髑髏の顔になったのかが興味深いところである。

ごろねこの本棚【34】(7)

  • ごろねこ
  • 2023/10/13 (Fri) 20:08:19
『黄金バット/なぞの巻・地底の国』(永松健夫)
桃源社・1975年5月10日刊・B6判
『黄金バット/天空の魔城・彗星ロケット』(永松健夫)
桃源社・1975年5月20日刊・B6判

実は、明々社版の復刻本は、(5)よりこちらのほうが先に刊行された。こちらは桃源社から「冒険活劇大ロマン」として全14巻が刊行されたシリーズで、その第1弾が『黄金バット』の2冊だった。明々社版の全4巻すべてを復刻し、未完の第4巻「彗星ロケット」に続く、『冒険活劇文庫』に1950(昭和25)年1月号から5月号まで連載された「科学魔篇」も復刻している。ただし「科学魔篇」も未完である。
(5)と異なり、原書からそのまま復刻して、しかも1色刷りなので極めて見づらい。「原形尊重の立前から、あえて修整の手を加えなかったため、多少見にくいところがあるかも知れません」と書いてあるが、いや、「立前」はどうでもいいから、見やすくしてほしかったと思うのは私だけだろうか(笑)。これがあまりにも見づらかったため、トレス版の(5)が刊行されたのかも知れない。とはいえ、こちらに第4巻「彗星ロケット」と「科学魔篇」が収録されているのは貴重だ。「科学魔篇」は絵物語形式でB5判に連載されたものをそのままB6判に縮小しているので、これまたあまりにも見づらく、私は読むのに挫折した。
改めて永松健夫の『黄金バット』を読むと、あまりにも奇想天外、荒唐無稽なSF世界に驚かされる。正義のヒーローが悪の組織と戦うといった単純なイメージとはまるで違う。舞台も第2巻から地下国へと移る。大昔に地底へ下りたシマ族が大鉱脈を見つけて王国を造り、シマ女王を中心に平和に暮らしていたが、それらの宝を横取りしようとするモモンガ―族が現われ、平和を脅かしていた。じつはナゾーはモモンガ―族の子孫で、シマの宝庫を狙っていたが、黄金バットたちはシマ女王に加勢する。やがてナゾー一味は地上のナゾー島へと退却するが、そこで魔王星からやって来た空魔人と出会う。空魔人たちはシマの宝庫にあるコーカスという燃料を狙っていて、ナゾーと協力して地下国を水没させ、その隙に宝庫を襲うことに成功する。幸いに奪われた宝物はごく一部であったが、シマ女王がさらわれ、黄金バットたちは空魔人を追いかける。戦いの舞台は地球を飛び出して魔王星へと移り、恐竜やらロボットやら宇宙人やらが入り乱れての激闘が繰り広げられる。黄金バットたちが有利になったと見えたとき、新たな敵、Q王星のQ連隊がナゾーと空魔人へと加勢し、黄金バットの仲間たちが囚われてしまう、といった具合に、異世界を舞台に、果てしなく戦いが続いていく。これはもう「スター・ウォーズ」の世界であって、個人のヒーローの戦いではないと感じてしまう。
永松は、『少年画報』(元の『冒険活劇文庫』)に1952(昭和27)年8月号から翌年8月号まで再び『黄金バット』を連載しているが、これは「科学魔篇」の続きではなく、別の話らしい。他に、1950年『少年痛快文庫』に『超人黄金バット 発端編』の掲載、1955(昭和30)年『太陽少年』に『黄金バット』の連載もしている。だが、永松健夫は1961(昭和36)年に亡くなったため、黄金バット版「スター・ウォーズ」は永遠に未完のままになってしまったのである。

ごろねこの本棚【34】(8)

  • ごろねこ
  • 2023/10/15 (Sun) 19:37:54
『怪盗黄金バット』(手塚治虫)(復刻版)
名著刊行会・1980年6月刊・四六判ハードカバー函入り

「手塚治虫初期漫画館」として復刻された全22冊セットの中の1冊。原書は1947(昭和22)年12月に東光堂から刊行された。
昭和6年に紙芝居の『黄金バット』がヒットしたとき、永松版や加太版以外の『黄金バット』が登場したであろうことは容易に想像がつく。肉筆原画をボール紙に貼り付け厚くして、画面にニスを塗って仕上げる紙芝居を、大勢の紙芝居屋に順番に貸し出すのだから、人気作はなかなか順番が回ってこないだろう。となれば、親方が許可していたかどうかはわからないが、複製を作ったり、あるいは贋作や類似作を作るのは当然だと思う。業者間で何等かの仁義はあったかも知れないが、著作権の意識などはなかっただろう。たとえば、桃源社の復刻版の解説で、都筑道夫が自分の紙芝居体験を述べている。都筑が子供時代に見た紙芝居『黄金バット』の中には、敵役にナゾーが登場せず、孫太郎虫とかグリーン・ゴッドといった様々な怪人たちが次々に登場するものがあったそうだ。また、怪人たちと最後の決戦が終わって黄金の髑髏の仮面を脱ぐと、白髭の老人が現われ、亡き主君の復讐のための戦いが終わって自ら切腹する黄金バットもいたという。おそらく、本家とは異なる黄金バットが多数いたに違いない。
戦後には、紙芝居もそうだが、多くの『黄金バット』の単行本が刊行されている。永松・加太版以外は贋作ということになるが、贋作のせいか、グラフ誌や資料本などに書影は載っていない。「まんだらけ」のオークション履歴で色々な贋作の表紙を見ることができるぐらいだろうか。そうした中で、例外として有名なのは手塚治虫の『怪盗黄金バット』である。手塚の出世作である『新宝島』と同じ1947(昭和22)年の刊行なので、まだ新人の手塚に出版社のほうから『黄金バット』を描いてくれと依頼があったのだろうか。手塚自身がこの作品について言及した文章が見つからなかったのでわからないが、この作品を手塚全集に収録しなかったのは、多少この作品にやましさを抱いていたのかも知れない。ただし内容は本家とはまったく違う。
サラダ公爵の持つ宝石ルビー・ダイヤを、怪盗黄金バットと謎の怪人が狙っていた。ルビー・ダイヤはルビー島の王位の印となる宝石なのだが、昔、悪大臣が王を毒殺したときに、行方不明になっていた。そして王女のココア姫は殺されて幽霊になり、謎の怪人としてダイヤを取り戻そうとしていた。一方、黄金バットは悪大臣の子孫であり、その正体はキリギリス伯爵夫人であった。やはりダイヤを得て王位に就こうと狙っていたのだ。サラダ公爵の父子とココア姫は事情を知って協力し、黄金バットより先にダイヤを手に入れるための冒険が始まる。……黄金バットを悪人として描く作品は他にもあると思うが、正体が女であるとひねったところが、いかにも手塚らしい。

ごろねこの本棚【34】(9)

  • ごろねこ
  • 2023/10/18 (Wed) 19:40:58
『黄金バット』(東映・1966昭和41年12月公開)
東映ビデオ・2005年4月・DVD

『黄金バット』の映像化は意外と早く、1950(昭和25)年12月24日に『黄金バット/摩天楼の怪人』が公開された。尾形博士が発明した、水爆の数千倍の威力を持つウルトロン超原子を、怪人ナゾー率いるQX団が盗もうと狙っており、それに黄金バットが立ち向かうという話らしい。残念ながら、フィルムは現存していない。製作は新映画社、配給は東京映画会社(現・東映)で、監督は志村敏夫。志村は1960年のTVドラマ『怪獣マリンコング』も何話か監督している。ちなみに『怪獣マリンコング』は桜井はじめや笹川ひろしがまんが化している。出演は尾形博士に杉寛、黄金バットに上田龍児で、美空ひばり(公開時13歳)も出演している。『猿飛佐助/忍術千一夜』(47)『エノケンのとび助冒険旅行』(49)などの時代劇を除けば、日本初のスーパーヒーロー映画だと思う。もっともスーパーヒーローそのものが、黄金バット以外にはまだいなかったのかも知れない。『鋼鉄の巨人(スーパージャイアンツ)』の第1作が1957年、『月光仮面』の第1作は58年、『遊星王子』は59年の公開だった。
さて、戦後に復活した黄金バットも忘れ去られようとしていた頃、『黄金バット』はまたもや復活し、1966(昭和41)年12月21日に実写映画が公開された。DVDジャケットはカラーになっているが、モノクロ作品である。製作・配給は東映で、監督は佐藤肇、主演は千葉真一。千葉はナゾー一味と戦うヤマトネ博士の役で、黄金バットは佐藤汎彦(声は小林修)である。高見エミリーが黄金バットを呼ぶ少女役で出演しているが、前作の美空ひばりがこの役だったのかも知れない。
宇宙の支配者として人類を滅ぼそうとする怪人ナゾーは、惑星イカロスの軌道を変えて地球に衝突させようと企てる。国連のパール研究所では、水爆の千倍の威力を持つ光線を発射する超破壊光線砲を使って、接近するイカロスを爆破しようとする。その集光レンズの元となる原石を探すヤマトネ博士一行は、突如浮上したアトランティス大陸の神殿の棺に眠る黄金バットを発見する。原石を奪おうとナゾー一味が襲って来たが、少女エミリーが注いだ清らかな水によって黄金バットが復活し、一味を撃退する。黄金バットは博士たちと共に戦うことを約束し、原石を授けて去って行く。だが、完成した超破壊光線砲を狙ってナゾー一味はパール研究所を襲い、東京には要塞ナゾータワーが出現した。
この映画に続いて、1967(昭和42)年4月1日から翌年3月23日まで全52話でTVアニメ『黄金バット』が放映される。どちらも「原作・永松建夫、監修・加太こうじ」とクレジットがあり、永松・加太版の『黄金バット』がオリジナルと認識されていたのだろう。ただし永松版と加太版ではかなり設定が異なっていたので、映画とその設定をある程度継承したTVアニメ版にいたって、ようやく『黄金バット』の設定が定まったといえる。アニメ版の黄金バットの声も、映画と同じ小林修だった。

ごろねこの本棚【34】(10)

  • ごろねこ
  • 2023/10/20 (Fri) 20:06:06
『少年コミックス/黄金バット特集号』(一峰大二)
少年画報社・1967年7月15日刊・B5判

映画公開に合わせて『週刊少年キング』に1966(昭和41)年12月から1年間、次にTVアニメ放送に合わせて『少年画報』に1967(昭和42)年4月から1年間、まんが版『黄金バット』が連載された。じつはその前の1964(昭和39)年から翌年にかけて『まんがサンキュー』に篠原とおるが『黄金バット』を連載しているそうだが、私は見たことがない。時期的にも早すぎるし、「原作・住彦次郎」となっているそうなので、映画・TVアニメとは関係のない贋作の一つだろう。
この『少年コミックス』には一峰大二が作画を担当した『週刊少年キング』版が208ページ収録されている。『少年コミックス』は『少年キング』『少年画報』に連載したまんがの総集編を載せる雑誌で、年四回の刊行だが、あまり続かなかったように思う。他に「マグマ大使特集号」などがあった。
さて、実写映画とTVアニメを経て、これらのまんがにいたってようやく「黄金バット」の設定が定まったようなので、これを決定版として整理しておこう。私はアニメを見ていないので、アニメの設定とは異なるところがあるかも知れない。アニメはYouTubeで公式非公式など上がっているので、興味のある方は比べて確認してほしい。
●黄金バット。永松・加太版は、昔の西洋貴族のような服装に長い赤マントを翻しているのは同じだが、永松版は帽子を被り、襞襟もある。顔は黄金の髑髏だがどちらも眼球はあり、さらに永松版は黄金の髪が生えており、鼻もある。これに対して決定版では、マントとパンツとブーツを身につけているだけ。マントは黒で内側が赤い。顔も髑髏感が強く、眼球はない。歯は上下ともきれいに揃っているが、永松版では上下とも前歯が2本ずつ、加太版では上3本の下2本というように歯欠け状態である。スーパーヒーローとして歯が全部揃っているほうが見映えがいいと思うが、じつは実写映画版では、上の歯が1本黒く、下の歯は1本欠けているように見える。映画用のマスクを作るにも全部歯を揃えたほうが作りやすいと思うが、加太こうじ監修ということもあり、加太版のように歯欠けにするのに何かこだわりがあったのだろうか。また手に持っているのは、加太版では黄金丸というサーベル、永松版は黄金杖という杖、決定版はシルバーバトンという球のついた杖になっている。
●ナゾー。元々の永松版では、怪盗黒バットが黄金バット(戦後版では蛇王)にやられ、ナゾーになる。戦後の加太版では設定を大きく変えて、ナゾーはナチスドイツの科学者だったという。両足を切断したため下半身は小さな円盤に入っていて、それで移動する。永松版では空魔大王に新たな鳥のような足をつけてもらっている。どちらもミミズクのマスクを被り、両手とも獣のような3本指になっている。決定版では、ミミズクのマスクの目が四つになった。それぞれの目から異なる威力の光線を発する。また左手は鋼鉄製の義手になった。
なお、黄金バットとナゾーの関係ははっきりとはわからないのだが、本書に「黄金バットのひみつ50」という記事があり、それを参考に両者の関係を推測してみよう。なお、記事ではナゾーの正体をナチスドイツの科学者エーリッヒ・ナゾーで72歳ぐらいとしながら、本編では1万年も生きている設定にするなど矛盾もある。そこで、黒バットやらナチスドイツやらの設定を除外して考えると、およそ次のように推測できる。
アトランティス大陸のポセイドン王は我がままに暴れ回っていたが、神の怒りに触れ、大陸が大震災で沈むとき黄金のミイラとなって棺の中に閉じ込められてしまった。1万年前に地球征服を企む宇宙人ナゾーが現われたが、ポセイドン王のミイラは神の赦しを得て、神の使い「黄金バット」として蘇り、ナゾーと戦って追い払った。ナゾーは1万年に1回地球に近づく軌道を回る星に逃れ、今再び地球に戻り、地球を征服しようとしている。

ごろねこの本棚【34】(11)

  • ごろねこ
  • 2023/10/23 (Mon) 20:06:11
『黄金バット(1)(2)』(作・加太こうじ、画・一峰大二)
大都社・共に1990年9月20日刊・B6判

一峰大二の『黄金バット』は映画公開に合わせて1966(昭和41)年12月から『週刊少年キング』で連載が始まった。まだTVアニメは放映されていなかったが、TVアニメ版と同じ世界観で描かれている。一峰といえば、古くは『ナショナルキッド』『七色仮面』から『ウルトラマン』シリーズや『電人ザボーガー』『スペクトルマン』など、映像ヒーローものをまんが化する第一人者といえる。そのせいか、私には一峰大二の描く黄金バットが、一番オーソドックスに見える。
『少年コミックス』には、「①黄金バット誕生、②四つ目の怪球、③バキュアム、④怪獣アドド」の4話が収録されていた。この大都社版が刊行されたのは、連載終了から20年以上経ってからになったが、おそらく全話収録されていると思う。「①黄金バット復活の巻、②バキュアムの巻、③ビッグ・アイの巻、④物体X・アドドの巻、⑤青い炎の国の巻、⑥怪獣ベムの巻、⑦怪獣ベムの巻PART2、⑧1万年前の怪獣ウーラの巻」である。ただし、『別冊少年キング』にも『黄金バット』の読切作品が掲載されたそうなので、そちらは未収録かも知れない。なお、「少年コミックス」版の①と②は、大都社版では合わせて①となっている。
ただ、アニメ版と同じ世界観とはいうものの、アニメ版をまんが化したものではなく、ストーリーは別物らしい。アニメ版全52話のサブタイトルで、まんがと同じなのは第20話「青い炎の国」だけである。当然アニメを基にしているのだろうが、そのまままんが化したものかどうかは確認していないのでわからない。サブタイトルを見る限り、まんが版の悪役バキュアムやビッグ・アイやアドドなどが登場する話はないようだ。
ところで、気になるのは黄金バットが戦う相手だが、①のバキュアムは人型宇宙人、②のビッグ・アイはマシーン(ロボット)である。だが、③以降はすべて怪獣になる。連載期間はまさしく怪獣ブームの真っ最中だったからだろう。TVでは『ウルトラマン』『キャプテンウルトラ』『ウルトラセブン』と放映が移行していた時期であり、東宝は『ゴジラ・エビラ・モスラ南海の大決闘』、大映は『ガメラ対ギャオス』、おまけに松竹は『宇宙大怪獣ギララ』、日活は『大巨獣ガッパ』を公開した時期であった。
また、アニメとまんがで、ナゾーが「ロ~ンブロ~ゾ」という言葉を呟くようになった。姿を現わしたとき、命令するとき、感情が高まったときなど、あらゆる状況で口癖のように「ロ~ンブロ~ゾ」と発している。たとえば「悪魔くん」が「エロイムエッサイム」と唱えるように、ナゾーの特徴を際立たせるために呪文のようなものを考えたのだろう。言葉としての意味はないと思うが、19世紀のイタリアの精神科医チェザーレ・ロンブローゾの名前を使っている。ロンブローゾは犯罪生物学の創始者であり、「犯罪学の父」と呼ばれているそうだ。「犯罪の父」ではないのでナゾーが唱えるのも変だし、ロンブローゾにとっては迷惑な話だが、語感から決めたのだろう。

ごろねこの本棚【34】(12)

  • ごろねこ
  • 2023/10/24 (Tue) 19:37:11
『黄金バット(上・下)』(智プロ・井上智/原作・永松健夫/監修・加太こうじ)
アップルBOXクリエート・2006年12月15日刊・A5判(函入り)

井上智は『黄金バット』を2回描いている。最初は、中村書店の「ナカムラマンガシリーズ」で1958(昭和33)年から59年にかけて『新編・黄金バット』を全3巻で刊行している。第1巻に「前編」、第2、3巻は「第2部・第3部」と表記されているので、元々は前後編の全2巻の予定だったのかも知れない。黄金バットのコスチュームは永松版と同じだが、永松の原作表記はなく、黄金バットは天王星からやって来た正義の味方となっているそうだ。「新編」とは「新作」の意味だろう。要するに多数の贋作の一つである。ちなみにこの作品は『少年画報』に連載したものを単行本化した、という情報もあるが、『少年画報大全』に何の記載もないので誤りである。
次に1967(昭和42)年4月から始まったTVアニメ放送に合わせて『少年画報』に1年間、まんが版『黄金バット』を連載している。井上智も一峰大二と同じく映像ヒーローもののまんが化作品が多く、『魔神バンダー』『ウルトラマン』『マグマ大使』などを手がけていた。『マグマ大使』にいたっては、手塚に頼まれて「サイクロップスの巻」を代筆したほどである。また、本作がアップルBOXクリエートで(同人誌的に)復刻されるまで単行本化されなかった理由は不明だが、当時、『少年画報』の別冊付録まんがは「少画コミックス」という1冊の別冊にまとめられており、4段が基本になるB5判本誌より、1段少ない3段分のほぼ正方形の判型だった。単行本にするときは、そこを編集しなければならないことが障害になっていたのかも知れない。アップル本では、何の編集もなく、4段と3段のまま収録している。
さて、本作も一峰版と同じくTVアニメ版の世界観で描かれており、次の6話が収録されている。「①(マンモスキラー)、②(溶解怪獣グニラ)、③(地底人ロボット・オゲラ)、④怪獣ゴゴの巻、⑤怪猫黒ネコの巻、⑥(サイボーグ・ミイラ)」。実際にタイトルがついているのは④⑤だけなので、他は登場する敵を書いておく。一峰版がすでに始まっていたからか、「黄金バット誕生」編はないが、①の「マンモスキラー」はTVアニメの第2話である。また⑤「怪猫黒ネコの巻」はTVアニメ14話「原子ブラックギャット」のまんが化である。他は未確認。
なお、本作では初めて黄金バットの弱点が示される。黄金バットは、ミイラとして1万年の眠りについていたところを清らかな水を体に注いでもらい、蘇ったのだった。映画版では少女エミリーが両手で掬った水を注ぐ。一峰版はヤマトネ博士が黄金の水差しに入った命の水を注ぐ。アニメ版は少女マリーが地下水をバケツで汲んで黄金バットの眠る棺の中にぶちまける。アニメ版は風情がないが、とにかくこうして水を得て黄金バットは蘇った。となると、逆に体から水分がなくなると死んでしまうことになる。④「怪獣ゴゴの巻」ではナゾーの罠にかかり、黄金バットは石油に濡れた体に火をつけられ、水分が蒸発して倒れてしまう。ナゾーが「奴は水分がなくなると死んでしまうのだ。うまく弱点をついてやったぞ」と言っている。だが、このときはマリーの流した涙をコウモリが運んで、生き返る。また、⑥ではサイボーグ・ミイラの水分を吸い取る包帯に絡みつかれて弱り、動けなくなったところを乾燥機の中に閉じ込められてしまう。黄金バットがあまりにも強すぎるので、井上がこうした弱点を作ったのだろうか。それともアニメの中にもこの弱点は出てくるのだろうか。興味のある方は確認してみて下さい。といっても、このときもヤマトネ博士が乾燥機の中に水を投げ入れ、黄金バットはすぐに復活してしまうのだが。元々、強くしすぎた黒バットを倒すために登場させた「神さまのような正義の味方の超人」が黄金バットなので、無理に弱点を作る必要はないのだろう。

ごろねこの本棚【34】(33)

  • ごろねこ
  • 2023/11/05 (Sun) 19:45:09
『少年マガジンコミックス ワタリ(3)』(白土三平)
講談社・1967年7月刊・B5判

昔、白土作品は貸本で読むことが多かった。『忍者武芸帳(影丸伝)』はもちろん、『サスケ』は掲載誌「少年」を毎号購入して読むことはできなかったし、『風の石丸』や『狼小僧』は「週刊少年マガジン」の連載だったが、連載時に私はまだ幼くて週刊誌を買って読むなどという習慣はなかった。当時は雑誌掲載後わりとすぐに貸本になり、長い期間貸し出されていたので、作品発表時と私の読んだ時期に時差があるのが普通であった。私が初めて少年週刊誌を買ったのは1963年のことだ。少年週刊誌は1959年に創刊されているが、その頃はまんがを読めたかどうかも覚えていない。ちなみに青年まんが誌は「漫画アクション」(創刊時週刊)が1967年、「ビッグコミック」(創刊時月刊)や「プレイコミック」(現在休刊)は1968年に創刊されているが、私が読み始めるのはその数年後になる。そう考えると、あの頃の新しい文化は様々なジャンルで団塊の世代の成長に添って新しく生み出されていたのではないかと思う。私は団塊の世代の後を追う世代だったので、少しずつ遅れている。
それはともかく、私は『忍者武芸帳(影丸伝)』では「影一族」のメンバー(藏六、くされ、しびれなど)の生い立ちを描く話(9巻から11巻)を面白いと思っていた。白土作品から歴史観や思想を読み取るなどという読み方はできなかったので、白土作品の面白さは印象に残るキャラクターだった。とくに私がお気に入りだったのは『サスケ』『ガロの復活』や幾つかの短編に登場する四貫目という忍者である。白土作品にはよく登場するボサボサ頭に団子鼻という容貌ながら、カブトワリという特殊な手裏剣を使い、明晰な頭脳と卓越した技でどんな危機も回避する。影丸やカムイのようなカリスマ性やオーラはないが、不思議と魅力的なキャラクターだった。
そして、1965年3月10日号の「週刊少年マガジン」から『ワタリ』が新連載となったが、これが、もしかしたら(短編を除けば)私が初めて雑誌で読み続ける白土作品だったかも知れない。この作品は少年忍者ワタリが主人公だが、ワタリが「じい」と呼び、一緒にいる老人が四貫目だった。ワタリが四貫目の孫なのかはわからないが、そんなふうに見えた。それだけで、この作品は面白くなるだろうと期待させたのだった。

ごろねこの本棚【34】(14)

  • ごろねこ
  • 2023/11/06 (Mon) 19:56:02
『白土三平選集16 ワタリ(三)』(白土三平)
秋田書店・1970年3月刊・A5判函入り
『ワタリ(1)(7)』(白土三平)
講談社・1977年7月(1)、11月(7)刊・文庫判

『ワタリ』は講談社からKC、KM(共に全7巻)、KCSP(全5巻)で刊行された。KC(講談社コミックス)で刊行されたとき買えばよかったのだが、そのときなぜか買い逃していた。そこで、後にKM(講談社漫画文庫)で出たときに買ったのだが、老眼になった今、文庫本は読みにくくて困る(笑)。まさか半世紀近く後のことまでは考えていなかった。選集は全16巻のうちの第14巻以降の3巻が『ワタリ』なのだが、全3部のうち第2部までしか収録していない。文庫版でいうと第5巻までである。
『ワタリ』は3部よりなる。
第1部「第三の忍者の巻」は、伊賀の里に流れついた四貫目とワタリが、首領である百地三太夫の下人となるところから始まる。その頃、伊賀は百地党と藤林党の二つの忍者集団に分かれ、それぞれに首領と大頭がいて、下忍たちは死の掟に縛られていた。その掟への不満が高まり下忍たちは掟の秘密と顔も知らない首領の正体を暴こうと赤目党を結成する。一方、独自に伊賀の秘密を探っていたワタリは、二人の首領が陰で結ばれていることを知る。ワタリの友だちだった赤目党のカズラがわが身を犠牲にして百地党の首領を倒すが、死んだはずの首領が再び現われる。そしてワタリたちに対して、伊賀崎六人衆を差し向けるが、赤目党の加勢もあって撃退する。ついにワタリたちは、死の掟の謎と首領の正体を突き止め、暴くのだった。
第2部は「0(ゼロ)の忍者の巻」。伊賀は赤目党が平和に治めるようになったが、真の首領だった者は死を免れ、闇の首領だという0の忍者を招き寄せる。0の忍者は全身を鎧兜で覆い、斧の刃のついた槍を持ち、馬に乗って現われた。不思議な術を使い、目からは殺人光線を発して次々と下忍や里人たちを殺していくが、自分は何度殺されてもすぐに復活した。下忍たちは恐怖のあまり、0の忍者の側につく。ワタリは一度は伊賀を去るが、女友だちのアテカが殺害されたと知って伊賀に戻り、赤目党を裏切るふりをして敵側に接近する。そしてついに0の忍者と対決して、不死身のからくりを暴き、真の首領を追いつめる。だがそのとき、首領の合図によって織田信長六万の軍勢が伊賀に攻め入り、伊賀は壊滅した。
第3部は「ワタリ一族の巻」。ワタリは四貫目と共にワタリ一族のもとへ戻る。ワタリ一族とは、木こりや行商、またぎや芸人などわたり渡世の者たちを守る忍者集団であった。だが、一族のもとに戻った二人は奇怪な事件に巻き込まれ、仲間を殺した汚名を着せられて命を狙われる。信長による伊賀の乱以来、忍者集団が独立して生存するのは難しくなり、一族の首領は徳川の庇護を受け、一族の延命を図ろうとするが、四貫目とワタリはそれに反対したことによって、首領の一派から追われることになったのだ。じつは首領は徳川の服部半蔵にすり替わっており、全国のワタリ一族を、延いては全国の忍びを支配しようとしていた。ワタリの親友の姫丸は首領の跡継ぎであったが、ワタリの身代わりとなって死に、ワタリたちを逃がすのであった。
『ワタリ』は、当時流行っていた忍者同士の対決を描く「忍者もの」の面白さはもちろんあるが、ミステリーの要素が強く、それが魅力だった。当時は知らなかったが、この作品は小山春夫を主とした作画チームが描いているので、ワタリや少女たちがふとしたときに艶っぽく見えるのも特徴だろう。

ごろねこの本棚【34】(15)

  • ごろねこ
  • 2023/11/07 (Tue) 19:27:19
『大忍術映画ワタリ』(監督・船床定男、出演・金子吉延)
東映・1966年7月公開・2004年11月DVD発売

白土三平原作の実写映画は『ワタリ』と『カムイ外伝』の2作しかない。『ワタリ』はまんがの第1部を原作としているが内容は変わっている。下忍たちが支配者を倒すことは同じだが、革命としての要素がなく単なる勧善懲悪になっていることが白土は気に入らなかったらしい。この前に『風の石丸』を原作としたTVアニメ『風のフジ丸』(藤沢薬品提供だったためフジ丸に変更)が作られたとき、東映動画が権利を持っていたため途中から原作・白土のクレジットがなくなったことと合わせて、以後、白土は東映とは絶縁関係になったという。
伊賀の里の百地党と藤林党の権力争いは、下忍たちを競わせて思い通りに操るために作られたもので、首領たちには秘密があった。その秘密に少しでも気づいた者は、出世を餌に五月雨城に潜入することを命じられる。じつは五月雨城は邪魔者を消すための罠で、城内では伊賀崎六人衆という刺客が待ち受けていた。
映画は、原作にある要素、たとえば死の掟や首領の正体、ワタリとカズラの友情、伊賀崎六人衆との戦いなどを、うまく取り入れて作っているとは思う。ただ子供向けの映画なので、ミュージカル風のシーンがあったり、伊賀崎六人衆が衣装はもちろん、顔や手足まで色分けされていたり、術にアニメが使われていたりするのはどんなものだろうか。私はリアルタイムで見たとき(まさしく子供だったのだが)、術にアニメが使われているのはともかく、忍者養成所の子供たちが突然歌い出すシーンや、伊賀崎六人衆の顔が赤かったり青かったり緑だったりするのには、違和感を覚えた。
監督が『隠密剣士』の船床定男だからか、四貫目役は霧の遁兵衛の牧冬吉、楯岡の道順役に風魔小太郎の天津敏が出演している。他の俳優陣も豪華で、百地三太夫役は内田朝雄、藤林長門役は瑳川哲朗、村井国夫が新人として出ており、主要キャストの紅一点としてカズラの姉ツユキ役で本間千代子が出ている。コメディリリーフとしてルーキー新一も出ているが、こんなコメディアンがいたなあと懐かしく思い出した。今回改めて見て驚いたのは、初めに舌を切られて殺される下忍の役として宍戸大全の名があったことだ。一時期、TVの時代劇でスタッフに「特技・宍戸大全」というクレジットが必ずといっていいぐらい入っていたが、日本初のスタントマンといわれ、千葉真一の先輩に当たる人らしい。そして、何といっても音羽の城戸役の大友柳太朗。東映時代劇の大スターだけあって殺陣があまりに凄すぎて、圧倒的な強さを感じさせてくれる。どう考えてもワタリに負けるのはおかしい(笑)。ワタリ役は金子吉延。『河童の三平』や『仮面の忍者赤影』で青影を演じていた子役だ。ちなみに当時私は『悪魔くん』『ジャイアント・ロボ』に出ていた金子光伸とどっちがどっちかわからなかった。

ごろねこの本棚【34】(16)

  • ごろねこ
  • 2023/11/08 (Wed) 19:43:29
『大忍術映画ワタリ/サイボーグ009』パンフレット
東映宣伝部・1966年刊・A4判

『ワタリ』の併映はアニメの『サイボーグ009』だった。パンフレットはちょっと厚い紙で、ページ数は12ページしかない。絵本のような簡単なストーリー紹介がそれぞれ5ページずつと裏表の表紙で12ページである。値段は50円だったか100円だったか忘れたが、小学生の私が思い切って買ったわりには、内容がスカスカでがっかりした。改めて読んでみると、「おじいさんといっしょに旅をしていたワタリ少年」と書いてある。四貫目はワタリの「おじいさん」ということになる。この「おじいさん」は単なる「年寄り」の意味には読み取れない。作品の中では明言されていないが、やはり四貫目とワタリは祖父と孫と解釈するのが自然だし、誰が見てもそう見えるのだろう。
映画ファンにとってパンフレットは鑑賞の記念や思い出になるものだが、私はそれほど買わなかった。余談になるが、私のパンフレット事情について書いてみよう。
大人に映画に連れて行ってもらった時期が終わり、小学校高学年から中学生の頃は、映画は友人と見に行くようになっていた。春、夏、冬の休みに各1回と、その他の時期に2~3回で、およそ1年に5,6回ぐらい見に行ったのではないかと思う。今から思うと回数は少なかった。パンフレットは毎回ではないがわりと買っていた。それが、高校生になると、映画は一人で見に行くことが多くなり、途端に回数が増えた。少なくとも月に2、3回は行っていたので、年に30回ぐらいは行っていたと思う。ロードショーはあまり見ないで、名画座や二番館三番館で見ることが多く、休みの日は三本立てを見ながら映画館でほぼ一日を過ごすなんてこともあった。本数でいえば年に50本以上は見ていたと思う。本数が多くなったのでパンフレットはそれほど買わなくなったが、二番館三番館で買うパンフレットは、ロードショー時のものとは違って、安かったがチャチだった。名画座などでロードショーと同じパンフレットを売っていることもあったと思うので、はっきりとはわからないが、ロードショーからかなり年月が経って二番館三番館で公開するときは、新たに簡易なパンフレットを作っていたのかも知れない。大学時代は、映画はデートぐらいでしか行かなくなり、パンフレットを買っても同伴者にプレゼントしていた。やがて映画紹介の記事を書くようになると、映画はほとんど試写を見ていたので、配給会社のプレスシートをもらうようになった。20数年経ってその仕事が終わっても、パンフレットは買わない習慣になっていたのだが、最近はたまには買うこともある。たとえばアメコミを映画化したシリーズは、その関係性を確認したくて買った。MCUの『アベンジャーズ/エンドゲーム』とかDCFUの『ジャスティス・リーグ』などである。ただ、今年見た『ザ・フラッシュ』は買おうと思ったら、初週なのに売り切れていた。客入りから見て、人気だからというはずもないので、おそらく部数が少なかったのだろう。最近は昔と比べてパンフレットを買っている人が少なくなった気がするが、どうなのだろうか。

ごろねこの本棚【34】(17)

  • ごろねこ
  • 2023/11/12 (Sun) 19:53:03
『セクシーボイス アンド ロボ(1)(2)』(黒田硫黄)
小学館・(1)2002年1月1日、(2)03年4月1日刊・A5判

『スピリッツ増刊IKKI』に2000年の第1号から、ほぼ隔月刊で刊行された03年の第13号まで13話を連載し、同誌が月刊になると連載は中断した。
林二湖(ニコ)は中学3年生。七色の声を操って話したり、雑踏の中で特定の声を聞き分けたりする能力を持ち、「スパイか占い師になりたい」と思っている。その訓練として、実益を兼ねてテレクラのサクラをしながら観察眼を鍛えている。第1話では、ニコの観察眼を見込んだ謎の老人(デコ頑)から誘拐事件への助言を求められ、テレクラの客だった須藤威一郎を巻き込んで事件を解決する。須藤はロボット・オタクの25歳のフリーターで通称はロボ。以降、ニコはコードネーム「セクシーボイス」を名乗り、謎の老人から様々な依頼を受け、ロボを相棒として事件を解決していく。
おそらく2000年頃だったと思うが、まんが評論などで黒田硫黄という名をよく目にするようになった。そこで何冊か黒田作品を読んでみると、主に筆を使って描いており、独特の世界観を持つ作家だった。そのときは、ふ~ん、と感心しながらもそのままで終わったが、その後、2007年にTVドラマ『セクシーボイス アンド ロボ』を見て気に入り、原作を読んでみたのだった。TVドラマは原作をかなり脚色していたことがわかり、TVドラマの魅力を原作では味わえなかったが、まったく別の魅力が原作にはあった。まんがの『セクシーボイス アンド ロボ』はニコが主人公で、ロボはニコに呼び出されては振り回されるおまけのような存在だ。ニコは中学3年生らしからぬ達観したような考えや言動で中学生にとって非日常的な世界を駆け巡る。もちろんまんがに登場したキャラクターやシチュエーションが多くドラマにも使われている。たとえば三日経つと記憶を失う殺し屋「三日坊主」の話、ニコが行きつけの美容室にいると飛び込んでくる強盗犯のバイク、水族館に電流を流して魚を皆殺しにしようとする脅迫者、爆発騒ぎの犯人として警察で取り調べを受けるロボ、などである。だが、テレクラで男を惑わす七色の声が由来の「セクシーボイス」というコードネームは、ドラマでは(タイトル・ナレーション以外)一度も使われていない。ドラマはスパイを志望する女子の冒険の物語ではない。家と学校とコンビニだけが世界のすべてだった少女がふと新しい角を一歩曲がって、少しずつ大人になっていく成長の物語である。残念なのは、ドラマが見事な終わり方で完結しているのに対して、まんがは未完のままになっていることだ。

ごろねこの本棚【34】(18)

  • ごろねこ
  • 2023/11/13 (Mon) 19:59:59
『セクシーボイス アンド ロボ』(出演・松山ケンイチ・大後寿々花)
バップ・2007年4月~6月放映・2007年9月DVD発売

ニコが主役だった原作に対して、TVドラマ版はニコとロボのW主役である。ニコ役の大後寿々花にとっても、ロボ役の松山ケンイチにとっても、初の主演ドラマだった。クレジット筆頭は松山になっている。残念ながら視聴率はよくなかったが、私はこのドラマが好きで、ドラマ終了3カ月後に販売されたDVDボックスを買ってしまった。放映時にはカットされたシーンを含むディレクターズカット版で、未放映だった第7話も収録されている。第7話は立て籠もり事件を題材にしていたが、放映前に暴力団が自分の家族を人質にして立て籠もり、発砲して警察官が犠牲になるという事件が発生したため、放映中止になっていたのである。
原作と大きく違うのは、ニコの家族(父母姉)が登場し、ニコの家庭の様子が描かれていること。ニコも中学2年生に変わっているが、これは大後の実年齢に合わせたのだろう。また、ニコたちに仕事を依頼する謎の老人(デコ頑)が、地蔵堂という骨董屋の主人・真境名(まきな)マキという女性に変わった。ただし裏社会と通じているのは同じ。演じているのは浅丘ルリ子。また主役となった須藤威一郎(ロボ)はフリーターではなく秋葉原に勤める会社員で24歳になった。これはニコが1学年若くなったのに合わせたのだろうか。松山ケンイチのこのときの実年齢は22歳だったので、少し実年齢に近づけたのかも知れない。第6話にはロボの母親(白石加代子)も登場する。
じつは私はドラマ版については、以前『ごろねこ』№34の1冊を使って、内容の分析と紹介を書いたことがある。それほど好きなドラマだった。『セクシーボイス アンド ロボ』は、少女ニコが各話で犯罪者と出会ってその心を知り、人間の悲しさや世の中のつらさを知って成長していく物語である。全体としても、ニコがロボや地蔵堂と出会い、非日常の日々を過ごして成長し、彼らと別れてまた日常へ戻る物語となっている。ふと角を曲がって一緒に歩いていたのに、ふと気づくと最後に話した日のことを思い出している。それが最後になるとは思ってもいなかったのに。ニコとロボの物語はこうして終わる。その完結性がすばらしい。そして、この作品が輝きを放っているのは、ニコの成長と、演じる大後寿々花の女優としての成長がシンクロしているからでもある。ニコがロボとの出会いを通して大人になるように、大後はこのドラマを通して子役から女優へと成長しているのである。私にとっては、そこが一番の見どころだった。

ごろねこの本棚【34】(19)

  • ごろねこ
  • 2023/11/17 (Fri) 19:37:45
『神の左手悪魔の右手(4)』(楳図かずお)           
小学館・1988年3月刊・B6判

楳図かずおが『ビッグコミック・スピリッツ』に連続して作品を発表していたとき、名作『わたしは真悟』(1982年~86年)と大作『14歳』(1990年~95年)の間(1986年~88年)に連載した5話からなる中編シリーズ(番外編の短編を除く)が『神の左手悪魔の右手』である。二大長編の間の息抜きの作品と思われるかも知れないが、これがまったく違う。おそらく楳図作品の中で、最もグロテスクで過激なスプラッタ―・ホラーとなっている。1980年に映画『13日の金曜日』が公開された頃に「スプラッタ―映画」という名称が生まれ、80年代には血しぶき飛び交うB級スプラッタ―・ホラーの映画がブームとなり、続々と公開された。それまでにも楳図作品にグロテスクなシーンは少なくないが、これほどのスプラッタ―描写はなかった。スプラッタ―でなければホラーじゃないといった風潮の中で、いやいや世間のスプラッタ―など生ぬるいと、楳図があえて描いてみせた作品なのではないかと、私は思っている。
主人公は、「山の辺想」という小学生の男の子。悪夢を見ることによって現実を予知し、夢によって現実に干渉することができる能力を持つ。ただしその能力は自分で制御できない。悪夢と惨劇の現実が入り乱れる中、最後に現れるのは想の正体である霊的存在(この世のもとと自称する)「ヌーメラウーメラ」であり、右手で邪悪な者を滅ぼし、左手で傷ついた者を癒す。タイトルの所以である。なお、想には「泉」という姉がいて、想の関わる事件に巻き込まれることが多く、時によっては想に代わって事件を追うこともある。
第1話『錆びたハサミ』。ある地下室で想の姉が錆びたハサミを見つける。想は、そのハサミが姉の両目を突き破って出て来たのを夢で見ていた。じつはそのハサミは、三十年前に子供たちを惨殺した殺人鬼が用いていたものだった。第2話『消えた消しゴム』。「人は死ぬと正体を現わす」ことを試そうと同級生たちと想は本当にみどり先生を死なせてしまい、密かに葬る。だが、先生は翌日も教室に現われ、関わった同級生たちは一人一人消えていく。第3話『女王蜘蛛の舌』。父の同僚の高品医師に連れられて想と泉は避暑地へ赴く。だが近くに住む蜘蛛女が高品を夫にしようと狙い、想が守ろうとする。第4話『黒い絵本』。病気で寝たきりの少女モモは、いつも絵本を描いてくれる父親と二人暮らしだ。だが、必ず登場人物が殺される絵本は、殺人鬼の父親が体験を描いたものだった。父親の正体に気づいて怯えるモモは助けを願うが、その願いを想が夢でキャッチする。第5話『影亡者』。ある大女優に憑いていた影亡者という強力で邪悪な背後霊が、泉の級友のみよ子にとり憑いた。みよ子は芸能界にデビューし、人の守護霊を食い尽くす影亡者の力によって、死んだ大女優のように人々を破滅させ出世していく。一方、みよ子の守護霊だった三郎太が追い出されて想の体を乗っ取ることになる。そのままでは想の存在が消えてしまうため、泉は三郎太と共に影亡者を倒そうとする。

ごろねこの本棚【34】(20)

  • ごろねこ
  • 2023/11/18 (Sat) 20:27:49
『神の左手悪魔の右手』(監督・金子修介、出演・渋谷飛鳥)
松竹・2006年7月公開・2006年DVD発売

第4話『黒い絵本』を映画化した作品。原作との一番の違いは、ソウ(映画ではカタカナ表記)ではなく姉のイズミを主人公にしたこと。まんがでは第4話に泉はほとんど登場しない。
まんがは、次々と殺人を繰り返す父親に脅かされる少女モモを、夢でリンクした想が助けるというストレートな展開の物語である。
それが映画では、冒頭の殺人事件で、被害者の少女アユと夢でリンクしたソウが重傷を負い、病院に運ばれる。姉のイズミはソウを助けようと、ソウの話を思い出したり夢などのコンタクトを受けたりして、モモと父親が暮らす田舎町へと向かう。つまり原作にはないイズミの活躍が描かれることになる。そこで、行方不明のアユを探すヨシコと知り合い、行動を共にし、モモの家を訪れる。さらに、ソウが重傷を負ったのはイズミの仕業ではないかと疑う刑事が、追いかけて来る。だが結局、ヨシコも刑事も父親の魔の手にかかってしまう。刑事がまったく役に立っていないが、楳図かずおが映画化に際して「刑事物にしないでくれ」と要望したというので、それを考慮したのだろうか。それなら刑事など出さなくてもいいと思うが、やはり事件が起こったからには警察が出動しないのも変だと考えてのことなのだろう。楳図のもう一つの要望は「心理物にしてくれ」ということらしいが、これはとくに父親役の田口トモロヲの狂気に表われていたと思う。最後に、イズミは父親に対峙することになるが、さすがに殺人鬼が相手では殺されてしまう。そして父親がモモをも殺そうとしたとき、死んだイズミの体を突き破ってソウが登場するのである。この登場の仕方は原作では『錆びたハサミ』に近い形がある。登場するのはヌーメラウーメラではなくソウなのだが、「我が左の手は正しき者を蘇らせる神の左手。我が右の手は悪しき者を滅ぼす悪魔の右手。滅びよ!」と父親を倒す。この口上は原作には一度も出て来ないが、タイトルをわかりやすく説明している。右手で父親を滅ぼすシーンはあるが、左手でイズミを蘇らせるシーンはないので、この口上がないと死んだはずのイズミがなぜ生き返ったのか、わからないだろう。
なお、この映画は初め『ビー・バップ・ハイスクール』シリーズの那須博之が監督したが、急死したため『デス・ノート』シリーズの金子修介が引き継いだ。映画の冒頭に「映画監督 那須博之に捧ぐ」とあるのはそのためである。