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好きな短編まんが『300,000km./sec.』(1)

  • ごろねこ
  • 2025/06/21 (Sat) 20:40:45
ペーパーマガジン『ごろねこ』は64号を最後に作っていない。もう7年半も作っていないことになるが、手作り作業をする気力がないので、多分もう作ることはないだろう。じつは65号に予定していたのは「好きな短編まんが100」という企画だった。そのとき、作品を選びかけていたメモが出てきた。途中なので、1955年から1982年に発表された50人の作家の50作品しか選んでいない。「100」では多すぎると思って「50」に変更したのかも知れないが、忘れてしまった。そこで、時々この企画を書いていこうと思う。短編まんがとは、およそ100ページ以内の作品を目安としている。70年前後には、わりと100ページ読切まんがというのが多かったからである。

 今回は、あすなひろしの『300,000km./sec.』。「CОM」1968年1月号に掲載された。この作品については、『ごろねこ』1号で考察したことがあったので、それを要約して載せておこう。1号の刊行はなんと22年前であった。

 1933年のドイツ。研究者のヨハンは、恋人のイルゼと別れ、レーマン博士と共に地下要塞でロケット爆弾の研究に従事する。博士は世界を破滅に導くほどの新エネルギーを発見したが、軍部に隠していた。だが、軍部の追及は厳しく、博士は宇宙に脱出する準備を密かに進める。翌年、脱出用のロケットが完成したとき、ヨハンのミスからイルゼが要塞を訪ねてくる。一緒に逃げようとするが、妊娠していたイルゼを残して、ロケットは宇宙へと発射してしまう。その直後に博士は死に、ヨハンを乗せたロケットは軌道を逸れて宇宙をさまよう。そして34年。ようやく地球への軌道へ戻ったが、すでに燃料はない。ヨハンは目標を昔イルゼと住んでいた地点に定め、最後の燃料を使い切る。ロケットは光速へと加速する。生前、レーマン博士は、物質は光速に耐えきれず光の粒子となるから決して光速にはするな、と忠告していた。それなら、せめて光となった自分をイルゼに見てほしいとヨハンは思う。あるいは光速を超えて時が戻るものなら、昔に戻りたいと願う。その頃、年老いたイルゼが揺り椅子に腰かけて見えない目で空を眺めていた。ロケットが発射したときの事故で視力を失ったのだ。瞬間、イルゼの体が光に包まれる。駆け寄ってくる息子夫婦と孫。「すごくまぶしい光が母さんを包んだよ」「青い光でしたわ、大きなロケットぐらいの……」

 『300,000km./sec.』は、レイ・ブラッドベリの『刺青の男』内の短編『万華鏡』をヒントにしたと思われる。実際、あすなひろしは『刺青の男』を読んだと言及している。
 『万華鏡』のストーリーは次の通り。宇宙船の破裂事故により乗員たちは宇宙空間に投げ出される。四方八方に散りながら乗員たちは無線で会話を続ける。地球に向かって落ちていくホリスは、自分がいかにつまらない人生を送ってきたかを痛感する。その頃、田舎の道で少年が空に流れ星を見つける。母親は少年に「願いごとをおっしゃい」と言う。
 つまり、空虚な人生を送った男が少年の願いをかける流れ星になることで報われるという短編である。この小説は1951年に発表され、日本で翻訳が出たのはハヤカワ書房から60年頃のことである。あらすじだけでは『300,000km./sec.』とはまったく関係がないように思われる。

 この短編をヒントに石森章太郎(後に石ノ森章太郎)が『サイボーグ009』(地下帝国ヨミ編)の最終回(「週刊少年マガジン」67年13号)を描いている。黒い幽霊団の魔神像を破壊した009は宇宙空間に投げ出される。助けにきた002と抱き合いながら二人は大気圏に突入していく。その頃、流れ星を見た姉弟(姉妹?)が願いをかける。姉は言う。「あたしはね、世界に戦争がなくなりますように……、世界中の人がなかよく平和に暮らせますようにって……、祈ったわ」。
 平和のために闘ってきたサイボーグ戦士が、平和の願いをかける流れ星となって死んでいく。もちろん石森自身が『万華鏡』をヒントにしたとは言っていないが、長編の締め括りにふさわしいシーンとして見事に活かされていると思う。『サイボーグ009』はこの後何度も甦るのだが、私としてはこの「マガジン」版で完結してもよかったのではないかと思う。

 また、坂口尚に『流れ星』という作品がある(1979年刊行「SFマンガ大全集PART3・別冊奇想天外№8」初出)。
 おばあちゃんは星の出ている晩はいつも揺り椅子に腰かけ、空を眺めている。おばあちゃんの夫はロケットのテスト・パイロット。地球に帰還するときはいつも減速の噴射を小刻みに光らせ、「ただいま」という合図を送っていた。だが、35年前に光子ロケット・ノバのテストに飛び立ったまま、帰らなかった。ある夜、おばあちゃんは急報を受けて息子の車で宇宙センターへ向かう。宇宙を漂流していたノバが地球に帰還したと、宇宙センターから連絡があったのだ。だが、夫は言う。妻とは過去と未来に隔てられてしまった、と。光速に近いスピードで飛んでいたノバの船内は、時間は半年しか経っていないのだ。そして、管制塔の指示を無視してノバは加速を始め、大気圏に突入する。その頃、途中の道で車を降りたおばあちゃんは夜空を見上げる。合図の点滅が光り、星が流れていく。「お帰りなさい、あなた」。おばあちゃんは呟く。「あの人……、時間を止めたの……」。

 『流れ星』もまた『万華鏡』と同じ構図をもっていることがわかるが、同時に異なる部分も多い。流れ星になるのは人ではなくロケット、地上で眺めているのは見知らぬ他人ではなく妻、星に願いをかけるのではなく星からの合図を受け取る。そして、この異なる部分は『300,000km./sec.』と共通している。さらに、35年の時を隔てて宇宙から帰還する夫。揺り椅子に腰かけて空を見上げて待つ妻。夫がいなくなってから生まれた息子には妻や子がいる、といったことまで共通している。
 もちろん、坂口尚は『万華鏡』を読んでいただろうが、『300,000km./sec.』も読んでいて、その影響を受けたのだと思う。というのは、坂口尚は1963年から4年ほど虫プロに勤務し、虫プロ商事刊行の「CОM」69年9月号でまんが家デビューしている。『300,000km./sec.』が「CОM」に掲載されたとき(67年12月発売)、坂口尚がまだ虫プロの社員だったかどうかはわからないが、虫プロ界隈にいて自分のデビュー作を発表する「CОM」を読んでいないわけがない。

 あすなの『300,000km./sec.』はブラッドベリの『万華鏡』をヒントにしたと書いたが、『万華鏡』の肝心のモチーフである「地球の大気圏に突入して流れ星になるのを、地上で見る」という要素は存在しない。ヨハンは時が戻ることを願いながら、光速を超えて青い光になってしまうが、流れ星にはならない。また、光はイルゼを包むが、盲目のイルゼにその光は見えない。両作に共通点はなく、ヒントにしたというのは、あすなが『万華鏡』を読んだという情報からの憶測にすぎない。だが、坂口尚は確実にその両作を読んでいる。そしてあすな作品の要素を取り入れながら、「地球の大気圏に突入して流れ星になるのを、地上で見る」というドラマに戻した。つまり『流れ星』を介することによって、『300,000km./sec.』が『万華鏡』をヒントにしていたと浮かび上がるのである。

好きな短編まんが『300,000km./sec.』(2)

  • ごろねこ
  • 2025/06/22 (Sun) 19:36:57
『流れ星』の夫婦は時間を隔てられ、『300,000km./sec.』の夫婦は空間を隔てられている。また、『流れ星』は妻の視点から語られる「夢」であり、『300,000km./sec.』は夫の視点から語られる「夢」である。

 夫婦とは同じ現在を共有し、同じ未来を夢見て生きていく。同じ時間を生きてこそ愛を育むことができる。『流れ星』の妻にとって、35年前に宇宙へ消えてしまった夫は過去の存在である。すでに二人で築くはずの現在も未来も失われた。過去を思い出して暮らしながらも、その時間が二度と戻ってこないのを知っている。35年前の姿で帰ってきた夫は、はかない夢だ。地上に降りそそぐ星の光が、遠い過去の光であるように、流れ星となった夫は過去の幻影である。その一瞬に二人の時間が戻るのは老女の夢でしかない。「お帰りなさい」と夫を迎えても、次の瞬間、その光は空しく消える。妻は「これでいいのよ」と呟く。まるで夢から覚めたように。

 妻の側から語られる『流れ星』は美しい。だが、夫の側に立ったとき、「ただいま」と妻へのメッセージを残しながら自ら死を選んでいる。宇宙センターによる回収作業を拒否して、隔てられた妻との時間を嘆きながら加速して大気圏に突入するのだ。夫は、妻の声だけでも聞きたいとは思わなかったのか。35歳年上になってしまった妻でも会いたいとは思わなかったのか。自分の子や孫たちの顔を見たいとは。……妻の夢でしかない夫にそのような躊躇いは見られない。妻にとって、夫は過去に区切りをつけるために帰ってくる存在である。だから想いは伝わらなければならないが、同時にはかなく消えなければならないのだ。妻の視点から語られる「夢」というのは、そういう意味である。読者は妻の視点で、この美しく悲しい話を味わうだけである。夫の視点が物語に関与することは最後までない。
 差別的な見方になってしまうかも知れないが、もし妻が年をとらず、夫が35歳年上になるという逆の状態だったとしたら、夫はこうした結末を選び、妻はこうした結末を受け入れただろうか。ふと、そんな疑問を感じる。

 果てしない空間を隔てられた夫婦は、互いの生死すらわからない。『300,000km./sec.』のヨハンは、ただイルゼに会いたい、イルゼの許に帰りたいと願い続けている。そのためには光速を超えるしか方法がないが、そうすれば自分は光となって消滅する。せめて光となった自分を見てほしいと願って、ヨハンは加速する。もしかしたら、光速を超えることによって時間が戻るかも知れないとはかない望みも抱いている。

 ヨハンの側から語られる『300,000km./sec.』は切ない。イルゼは生きていた。昔と同じ場所に住んでおり、息子夫婦や孫と暮らしていた。光となったヨハンは、遙か遠いイルゼの許に辿り着くことができる。だが、それをヨハンが知ることはなく、視力を失ったイルゼに光は見えない。最後の、そして唯一のヨハンの願いすら叶わない。

 光となったヨハンがイルゼを包み込むシーンも美しい。それもまたイルゼの許へ帰りたいと願っていたヨハンの見た夢かも知れない。ヨハンの夢は美しく終わるが、同時にヨハンの存在も消滅する。物語の語り部であった(夢を見ていた)ヨハンの存在そのものが夢であったかのように。
「かあさん、大丈夫かい!」
 庭の揺り椅子に腰かけるイルゼの許に息子夫婦と孫が駆け寄ってくる。
「すごくまぶしい光がかあさんを包んだよ」
「青い光でしたわ、大きなロケットぐらいの……」
「……そう」と、盲目のイルゼは揺り椅子から立ち上がる。「青い光ね……、ロケットぐらいの」
 まるで夢から覚めたように、イルゼは屋内へと戻っていく。「大きなロケットぐらいの……ね」
 このラストで、私たちは、ヨハンの視点で語られてきた物語、そのすべてが、ヨハンを待ち続けていたイルゼの見た夢である可能性に気づかされる。夫の視点から語られる「夢」というのは、夫の視点から語られる「妻が見た夢」という意味である。

 ヨハンの見た夢は美しく悲しい。それはまたイルゼの切なく消えていく夢でもある。時は二度と取り戻せず、遙かに隔たった想いは伝わらない。だからこそ人は夢を見る。夢は美しいが、切なくはかない。決して現実と交わることもない。
 夢の終わりが悲しい現実なのか、現実の終わりがはかない夢なのか、それともすべてが夢なのか。『300,000km./sec.』の余韻は深い。

『谷口ジロー・コレクション』

  • ごろねこ
  • 2025/03/19 (Wed) 20:36:57
「谷口ジロー・コレクション」は2021年の10月から23年の6月までにⅢ期にわたって全30巻が刊行された。B5判ハードカバーで、おそらく初出と同じカラー・ページも再現されている。その第Ⅱ期のラインナップが掲載されていたとき、「このほか『ふらり。』の刊行も予定しています。」と書いてあったが、第Ⅱ期完結後に刊行される気配もなく、やがて第Ⅲ期の刊行が始まった。第Ⅲ期は23年2月から6月までの刊行だったが、今度は「このほか『ふらり。』の刊行を今秋に予定しています。」と書いてあった。『ふらり。』は、伊能忠敬と思しき人物が正確な歩幅で歩く練習をしながら江戸の町をふらりと散歩するという作品で、主人公はいつか蝦夷地へ行くことを望み、やがて日本の地形を正しく計測し図に残すことを夢見ている。
この刊行を心待ちにしていたのだが、またまた一向に刊行される気配はなく、何となく刊行のことは忘れてしまった。『ふらり。』はすでに単行本化されたものを持っていたし、数年前に私の町から書店がなくなり、おまけに私はコロナ禍以後、ほとんど外出しない生活状況だったので、思いがけない新刊を書店で見つけるなどといったこととは無縁になっていたのだ。毎月の出版情報だけはネットで調べてサイトに上げていたが、大手出版社の予定に上がらない本の情報は知りようがなかった。

それが、つい先日のこと。谷口ジロー関連の何か新刊は出たかな、と思って検索すると、「谷口ジロー・コレクション」の第Ⅳ期新刊として3月中旬に『歩くひと』が刊行予定となっていた。しかも『ふらり。』は昨年の1月に刊行されていたこともわかった。いやあ、まったく知らなかった。谷口ジロー・ファンを自認しながら、1年以上も知らなかったなんて、知らないにもほどがある。

遅ればせながら急いで購入した。2冊まとめて買えたのは、むしろ時期がよかったかも知れない。正確にいうと、『ふらり。』は「第Ⅳ期特別配本」で、『歩くひと』は「第Ⅳ期」となっている。つまり「谷口ジロー・コレクション」は第Ⅲ期で完結したけれど、『ふらり。』だけを第Ⅳ期として特別配本した。ところがその続きとして『歩くひと』を刊行したということだろうか。できれば、第Ⅳ期も10冊ぐらい刊行してほしいのだが。
ただ、この2冊の出版元は「ふらり」となっていて、谷口ジローの著作権を管理・運営する株式会社だそうである。社名は谷口ジローが付けたという。原画展や作品集の企画などが業務だそうだが、企画はともかく出版を手がけるとなれば色々と大変そうではある。じつは「谷口ジロー・コレクション」は、小学館、双葉社、集英社、扶桑社の4社による共同出版として30巻が刊行された。4社が共同して同じデザインの装丁の作品集を刊行するのはかなり珍しいと思う。『ふらり。』『歩くひと』は初出誌や単行本は講談社なので、このシリーズには参加しなかったのか、あるいは初めから「ふらり」で出版しようと考えていたのか、事情はわからないが、続けての刊行を願っている。

「谷口ジロー・コレクション」の刊行当初、私は単行本未収録作品の収録を願っていた。だが、そういった全集的な配慮はなさそうで、むしろ完成度の高い作品のみをコレクションしているという趣である。そこがちょっと残念に思ったところだ。

私が初めて読んだ谷口作品は『ブランカ』で、1984年の作品である。『ブランカ』は面白いなどというレベルでなく本気で感動した。以後、谷口作品を追いかけるようになったのだが、作品としても『ブランカ』は谷口にとってターニングポイントになった、というか何らかのきっかけになった作品に思われる。この「コレクション」には、それ以前の作品は『青の戦士』しか収録されていない。また「コレクション」に収録されていなくても、以後の作品、とくに90年代以降の作品はほとんどが単行本化されている。ところが70年代の初期作品は単行本化されていないものが多い。『ブランカ』で何かが起こったのだとしても、いや、それならなおのこと、それ以前の作品も読んでおきたい。原則として単行本しか買わない私も、未収録作品の掲載誌を見つけたときには買ってしまうが、探しても集め切れるものではないだろう。初期の官能作品とはいわないから、ぜひ「初期傑作集」といったものを2冊ほどラインナップに加えてくれると嬉しい。

ちなみに今まで単行本未収録作品が収録されたのは、『晴れゆく空』に『ママ、ドントクライ』と『エンジェル・エンジン』の2短編だけである。今回『歩くひと』にフランスの雑誌「BANG!」に載った『川を遡る』がオリジナル通り左開きで掲載されている。以前光文社の『歩くひとPLUS』に収録されたときは右開きに直してあった。ただしどちらも日本語である。

『La Montagne Magique』

  • ごろねこ
  • 2025/03/25 (Tue) 21:56:01
私はほとんど知らないのだが、日本のまんがは海外でもかなり出版されているらしい。たとえば『ワンピース』とか『進撃の巨人』とかアニメがヒットした作品は原作も人気らしく、いったい何カ国で出版されているのか想像もつかない。谷口作品もフランスでの評価が高いのは有名だが、その他の国でも多くの作品が出版されている。先日、『遙かな町へ』の映画化が発表されたが、この作品はすでに15年前にフランス語で映画化されている。当時レンタルDVDで見たが、買えばよかったと後悔している。フランスが舞台でも違和感のない話に変更してあるが、谷口作品らしい雰囲気は感じられた。ラストに谷口自身もちょっと顔を出している。だが、もちろん、より原作に近い内容で原作通り谷口の故郷の鳥取が舞台の作品を見たい。地味な作品でもいいから、いい作品になってくれと祈るしかない。ちなみに『遙かな町へ』はフランス語、英語、スペイン語、ポーランド語など11カ国語で出版されている。あっ、日本語があるから12カ国だった。

私が持っている外国語版の谷口作品は2冊だけで、まずは『Mon année』という作品。訳すと「私の一年」となるらしく、ジャン=ダヴィッド・モルヴァンという作家の小説をバンド・デシネ化したものだ。ダウン症候群の少女キャプシーヌの日常を描いた作品で、原作は「春・夏・秋・冬」の4章があるらしいが、「春の章」だけが刊行された。日本語版は出ていないが、この本は函入り2冊本で、オールカラーの本編と、もう1冊には谷口の描いた絵コンテが収録されている。そちらの文字は日本語なので、一応話は分かるようになっている。ただし鉛筆描きの絵コンテをそのまま印刷したものなので、極めて読みづらいが。

もう1冊は、『La Montagne Magique』という作品。これは、2006年の「ヤングジャンプ」1号2号に前後編で載った『魔法の山』のフランス語版である。フランスでは早くも2007年に刊行されており、スペイン語やオランダ語版も刊行されている。日本では、谷口が亡くなった2017年に絶筆の『いざなうもの』を表題作とした単行本に収録されている。
フランス語版は左開きに変えてあるが、オールカラーになっている。ただし比較的淡い色使いをする谷口作品に比べ、はっきりと濃い配色になっているので、谷口自身のカラーリングではないかも知れない。そのあたりのことは何か記されているかも知れないが、私には読めない。元々とんでもなく手のこんだトーン・ワークに色をつけているのだから、それなりの腕を持つ人の仕事だとは思う。また、本来右開きの作品を、左開きに変えているので、コマ割りも絵も反転している。昔は、英語版などで絵が反転して、登場人物がみな左利きになっていたなんてことがあった。この作品でも主人公が右手に箸を持って食事をしたり、ペンを持って勉強をしたりするシーンがあるが、単に反転させて左利きになっているのではなく、その部分だけ右利きに描き変えてあった。海外版で開きが逆の場合、今はこれが当たり前なのだろうか。

『魔法の山』は、主人公・健一が少年時代を回想する形で語られる。健一は幼い頃に父を亡くしており、小学五年生のとき母が入院するところから思い出は始まる。母は元気にふるまっていたが、命にかかわる重い病気だと健一は知っていた。それでも夏休みは友人たちと、大きな城山で遊んでいた。城山には古い抜け穴があり、地下には聖泉があると言われていたが、肝試しに行くぐらいで通り抜けた者はいなかった。そんなある日、雨宿りで郷土科学博物館に入った健一は、そこの水槽にいたオオサンショウウオに話しかけられる。驚いて逃げ出した健一だったが、翌日出直すと、確かにサンショウウオは話しかけてきた。それによると、自分は出てはいけないところから出てきて人間に捕まり、もう十年もここにいる。そのせいで城山も危うくなっている。城山の地下深くにある聖泉に自分を戻してほしい。助けてくれたら望みは何でも叶える、と言う。健一は重病の母を思い、妹の咲子と一緒にサンショウウオを聖泉まで送り届けようと決めるのだった。
精霊ともいうべきオオサンショウウオとの話はファンタジーで、あまり谷口作品らしくない。ファンタジーが谷口作品らしくない、というわけではなく、病気の母親の話と合わないのだ。このオオサンショウウオ=精霊たちのシーンは笑うべきなのか、それにしてはあまり面白くないぞ、と途惑ってしまう。それでも結局は母親とのシーンでしんみりとしてしまうのは、谷口の画力の強さであり、説得力なのだろう。

最初に好きになったまんが

  • ごろねこ
  • 2025/04/03 (Thu) 22:11:39
私が最初に好きになった「まんが」は何だったんだろうと考えてみても、はっきりしない。私は小学一年生の二学期から東京に転校したので、それ以前は田舎住まいでTVもなく、TVと提携していたまんがも読んでいなかった。上京後に、同級生たちが実写版の『鉄腕アトム』や『鉄人28号』を見ていたと知って驚いたが、私はそんな番組の存在すら知らなかった。『月光仮面』や『少年ジェット』などもリアルタイムでは知らず、こうした子供向けの番組は必ず夏休みなどに集中的に再放送していたので、後に遅ればせながらそれで見たのだった。ただ実写版アトムや鉄人は、おそらく再放送が一度もなく、最近「甦るヒーローライブラリー」で現存するフィルムがDVD化されて、それで初めてまとまって見ることができた。ただ、『まぼろし探偵』はTVと同時期にラジオでも放送していたので、ラジオ版を聴いていたと思う。その前番組の『赤胴鈴之助』は吉永小百合のデビュー作として有名だが、それも聴いていたような気がする。それで、当時、母親が何か雑誌を買ってくれるといったときに、ためらわずに『少年画報』を買ってもらったのだ。母親にしてみれば読み書きの学習を兼ねて『よいこ』とか『めばえ』などの幼児向け雑誌を念頭においていたのかも知れないが、私の念頭にそういった雑誌はまったくなかった。

今振り返ってみると、この頃(たとえば1960年)の『少年画報』には『赤胴鈴之助』『まぼろし探偵』のほかにもTVやラジオとの提携作品として『白馬童子』『笛吹童子』『風小僧』『怪獣マリンコング』『快傑鷹の羽』『天馬天平』などが連載されている。そうそうたるラインナップである。これらが私が初めて読んだまんがだと思うが、じつはこのときに一番好きになったまんがが平川やすしの『あめん坊』だった。もちろん『まぼろし探偵』は好きだったのだが、本で読むまんがとしては『あめん坊』の相撲部屋の見習い弟子ののほほんとした日常が、自分の日常と重なって好きだった。いや、私は別に相撲には興味も関心もなかったのだが、当時としては珍しいペロペロキャンディーをあめん坊がなめているのが羨ましかった。

同じ頃だと思うが、叔父に『七色仮面』の単行本を買ってもらったことがあった。叔父は映画館に勤めていたので、ほぼ毎週、母や私は映画を見に行った。ほとんどは普通の大人向けの映画だったので、内容はもちろん何という映画を見たのかさえ覚えていない。ただ時代劇は話がよくわからないながらも、剣戟シーンなどは面白かったし、忍術もののいくつかのシーンは覚えている。TVがない環境だったので、映画を見るという行為そのものが楽しかったのだと思う。そんな中で覚えているのは『鋼鉄の巨人(スーパージャイアンツ)』と『七色仮面』である。時期的に『鋼鉄の巨人』は封切時ではなかったかも知れない。『七色仮面』はTV版を再編集したものだというが、他のヒーローに比べて、当時の私には格好よく感じられた。
たとえばスーパージャイアンツや少年ジェットは顔をそのまま出している。まぼろし探偵やナショナルキッドは目は隠しているが鼻や口は出ている。月光仮面となると頭も口も布で覆われ、サングラスをかけているので顔はまったくわからない。とはいえ、肌が見えないわけではない。それに比べて七色仮面は、顔全体が黄金の(モノクロだったが)仮面にすっぽりと隠され、まるでロボットのようである。理由は説明できないが、そこが格好いい。とにかく子どもの私には格好よく見えたのである。
たまたま叔父と書店に行ったとき、『七色仮面』の本を見つけて手に取っていたところ、叔父が買ってやろうかという。「おまえにはこっちのほうが読みやすいだろう」と絵本版の『七色仮面』を勧めたが、「いや、こっちがいい」と村山一夫が描いた『七色仮面』の単行本を買ってもらったのだ。第何巻だったか覚えていないが、初めて買ってもらった本格的なまんがの本が嬉しくて、何度も読み返していた。とくに印象に残っているのは、悪人たちの前に七色仮面が最初に登場するとき、四角いコマに斜めに立つ姿が描かれていたことだ。いかにも颯爽と現れたという感じに見えて、まんがの表現の面白さを知った。

もう一つ覚えている映画が『快人黄色い手袋』である。「黄色い手袋」と名乗る正体不明の男が、選挙違反をした政治家や脱税をした会社社長たちを懲らしめるといった大人向けのヒーローものなのが、珍しかった。黄色い手袋の正体を追う探偵や銀行ギャングも登場するが、伴淳三郎が黄色い手袋を演じていたせいか、アクションものという印象はない。原作は川内康範で、後に「少年マガジン」で桑田次郎によって『黄色い手袋X』として甦ったとき、あの映画が基になっているのかと気づいて嬉しくなったものだ。

『伊賀の影丸』(1)

  • ごろねこ
  • 2025/04/06 (Sun) 20:08:48
「少年サンデー」と「少年マガジン」が共に1959年の3月に創刊され、少年まんが誌も週刊誌時代へと徐々に移行していくことになるのだが、私がそれらを知ったのは、やはり東京に引っ越ししてきてからだと思う。月刊誌にしても毎月買っていたわけではないが、東京にきてからは、なぜか『少年画報』ではなく『少年』か『ディズニーの国』を買うようになっていた。『少年』にしたのは、『鉄腕アトム』と『鉄人28号』を連載していたからだろう。

そして、私が初めて少年週刊誌を買ったのは、「少年サンデー」の1963年の7月頃の号である。なぜ、そんなにはっきりわかるのかというと、『伊賀の影丸』の第3部「闇一族の巻」の影丸が人影と戦う回が掲載されていた号だと覚えているからである。「闇一族の巻」は63年の5月から始まり、この回は単行本によって第9回だとわかる。おそらく『伊賀の影丸』目当てで買ったのだと思うが、そのへんははっきりしない。すでに第1部「若葉城の秘密の巻」や第2部「由比正雪の巻」は単行本化されており、それらを読んで、『伊賀の影丸』を好きになっていたのは確かである。
あるいは、そのこととは別に、いよいよ勢いの出てきた少年週刊誌を買おうと思ったのかも知れないが、サンデーを選んだのは、当時の私は、サンデーのほうがマガジンよりスマートなまんがを連載しているというイメージがあったからだと思う。両誌とも買うという余裕はなかったので、そのイメージからサンデーを選んだだけかも知れない。
だが、これでますます『伊賀の影丸』にはまった。母親に交渉して小遣い制を導入してもらい、その後は毎号サンデーを買うようになったのである。小遣いといっても月に200円か300円もらうだけで、当時サンデーは通常号が40円で特大号が50円だったから、ほぼサンデー代である。
しかし、『伊賀の影丸』はそれだけの面白さがあった。当時の私の年齢もあるだろうが、今まで数えきれないほどのまんがを読んできた私でも、『伊賀の影丸』ほど続きを楽しみにしていたまんがは他にない。

特殊能力を競うバトルものは、山田風太郎の『甲賀忍法帖』から始まったといわれているが、それを最初にまんがに取り入れたのはこの『伊賀の影丸』だろう。ちなみに『甲賀忍法帖』は「面白倶楽部」に1958年12月から59年11月まで連載し、直後に単行本化されている。一方、横山光輝は「日の丸」60年10月号に『忍者影丸』という作品を11月号から連載するという予告を掲載したが、それはかなわず、61年3月からサンデーで『伊賀の影丸』となって始まったのだ。『甲賀忍法帖』の面白さに目をつけた横山が新作のヒントにして構想を練るには充分な時間がある。もちろん設定や戦う理由などは異なるが、忍術などはかなり同じものもあり、何よりも『甲賀忍法帖』には不死身の忍者・薬師寺天膳が登場する。最初に戦うときは相手の術に敗れて殺されてしまうが、不死なので蘇ってもう一度戦い、今度は相手の術を知っているので勝つ。影丸の敵の阿魔野邪鬼と同じである。忍者の戦い方として、こんな戦法が偶然に一致するはずがない。
『甲賀忍法帖』を最も早くまんが化したのは小山春夫で、63年に全3巻で刊行された。折しもまんが、小説、映像で忍者ブームの真っ最中であり、少なくとも少年まんがにおいては、その牽引役は『伊賀の影丸』であった。
余談になるが、私の印象では1963年に公開された映画『007は殺しの番号(ドクター・ノオ)』あたりから世の中はスパイブームへと変わっていき、1966年にTV放映された『ウルトラQ』あたりから怪獣ブームへと移っていった。世の中全体で一つのブームを追いかけていくのだから、考えてみれば忙しい時代だった。

ところで、私が初めて「少年サンデー」を買った63年7月に、じつは『伊賀の影丸』は映画化されている。影丸を松方弘樹、阿魔野邪鬼を山城新伍が演じている。原作の徳川幕府の隠密である影丸と違って、もう少し時代は遡る。織田信長を殺した明智光秀が、次に徳川家康を狙い、邪鬼率いる甲賀七人衆を差し向ける。七人衆は宿敵である伊賀衆を襲って頭領の百地三太夫らを殺すが、三太夫の子である影丸が、家康を守って七人衆と戦うという話だ。この映画はリアルタイムでは見ていないが、その後、何か(TVとかビデオ)で見たと思っていたが、2015年に出たDVDを見たところ、初見だとわかった。もし公開時に見ていたら、原作とあまりに違うことにがっかりしただろうか、それとも実写で見る忍者同士の闘いを面白いと思っただろうか、今となっては想像もつかない。

『伊賀の影丸』(2)

  • ごろねこ
  • 2025/04/11 (Fri) 20:25:20
私は『伊賀の影丸』を「少年サンデー」誌上で「闇一族の巻」の途中から読み始めたと述べたが、その終わり近くから「11月よりTBSテレビで放送決定!」という文字が、扉絵に載るようになった。その年(1963年)は1月からTVアニメの『鉄腕アトム』が始まり、それに『鉄人28号』『エイトマン』『狼少年ケン』とアニメ放送が続いた年である。「いやあ、影丸もアニメで始まるのかあ」と感激したのを覚えている。しかし、肝心なことをいつ知ったのか記憶にないが、放送前に知ったのか、放送を見て知ったのか、何と『伊賀の影丸』はアニメではなかった。確かに扉絵には「テレビで放送決定」としか書いてなかった。私が勝手にアニメだと早とちりしていたのである。TVの『伊賀の影丸』は人形劇だった。
子供向け番組としての人形劇は、その頃NHKで『チロリン村とくるみの木』を放送していたし、63年春からは手塚治虫原作の『銀河少年隊』も始まっていた。だが、まさか『伊賀の影丸』を人形劇にするとは想像もしていなかった。正直なところがっかりしたのだが、それでも毎回見ていた。
放送は63年11月から一年間全52回で、アニメ版への未練は残りながらも、ずっと面白く見ていた記憶がある。♪「かげー(ハッ)かげー(ハッ)影丸が行く(ヤアー)影丸が行く(ヤア―)雲だ風だ嵐だ雨だ パッと消えるぞ木の葉隠れ~」という主題歌は今でも覚えている。ちなみにこの主題歌は、曲・いずみたく、詞・山上路夫、歌・田辺靖男である。

この作品も「甦るヒーローライブラリー」で、「第2部・由比正雪」中の残存する10話が収録されたDVDが2014年にリリースされた。今見ても、というか、今見たほうが、面白く見られる。記憶では、舞台の下から人形を操っているという構図しか思い浮かばなかったのだが、ロングやアップや様々なアングルから人形たちの動きを映した映画技法を用い、人間が演じる実写に比べても遜色ない。原作のシンプルでスピーディーな展開に比べて、登場人物を増やして(「由比正雪」の巻に邪鬼も登場する)忍者バトル以外の話も織り込み、物語に緩急をつけているのも、映画的な展開を意識しているようだ。要するに、原作を用いながらも、原作とは異なるエンターティンメントを作ろうとする意欲が窺えるのである。
この番組を製作したのは「ひとみ座」という人形劇団だが、元代表の須田輪太郎氏にとって『伊賀の影丸』が代表になっての初仕事であり、いろいろなアイデアを試すことができた記念碑的な作品と述べている。『影丸』放送中の64年4月からは「ひとみ座」の代表作ともいえる『ひょっこりひょうたん島』の放送も始まり、『影丸』で培った経験が『ひょうたん島』に生かされたそうだ。

さて、これほど好きな『伊賀の影丸』だったが、第5部「半蔵暗殺帳の巻」が終わり、第6部「地獄谷金山の巻」が始まる1965年から、私は「少年サンデー」を買うのをやめて、「少年マガジン」へ移ってしまった。 もちろん読むのをやめたわけではなく、掲載誌を買わなくなっただけだが、一つには能力バトルものとしての『伊賀の影丸』のピークは第4部「七つの影法師」にあり、少し飽きがきていたのだろう。そして何よりも「少年マガジン」に横山光輝の新作『風夜叉』という作品が始まるのも理由だった。実際には『風夜叉』は短期連載ですぐ終わってしまったが、そのままマガジンを買い続けていると、手塚治虫の『W3』が始まった。これには大いに喜んだが、『W3』は『宇宙少年ソラン』との揉め事があって、手塚が連載を「少年サンデー」のほうへ移してしまった。とはいえ、この時点の「少年マガジン」には『黒い秘密兵器』『8マン』『ハリスの旋風』『ワタリ』などバラエティに富んだ名作が連載されており、しばらくすると横山光輝の『コマンドJ』も始まって、その後、購読誌が「少年サンデー」に戻ることはなかった。当時のサンデーは、どちらかというと『おそ松くん』『オバケのQ太郎』『ブラック団』などギャグまんがが主軸だった印象が強い。

『スパイキャッチャーJ3』

  • ごろねこ
  • 2025/04/17 (Thu) 20:21:27
忍者ブームの次はスパイブーム到来ということで、横山作品なら『コマンドJ』になる。私は好きだったが、『伊賀の影丸』ほどにはヒットせず、「少年サンデー」で影丸の次に描いた同じ忍者まんが『飛騨の赤影』(後に『仮面の忍者赤影』に改題)のほうが実写ドラマ化されるなどヒットした。当時、スパイまんがは何作かは描かれたが、一番ヒットしたのは望月三起也の『秘密探偵JА』(連載時は『ひみつ探偵JА』)だろうか。ちなみに『コマンドJ』では主役のJが最初は少年の顔だったが、第1部の終わり頃からやや青年の顔になり、第2部の2回目以降、完全に大人の顔に変化している。これについて、横山光輝クラブの原龍介氏は、少年が拳銃を使い、人を撃ったり、喫煙したりするシーンがあるのは、教育上問題ではないかという声が出てくるようになったのではないか、と推察している。確かに、まぼろし探偵や少年ジェット、あるいは『鉄人28号』の金田正太郎のように、いくら正義の少年だからといって、悪人たちを拳銃で倒していくのは容認されなくなり始めたのだろう。少年まんがの世界は、拳銃ごっこという遊びの延長の世界から、リアルな現実を投影した世界へと変わる転換期に入っていったのである。

スパイブームは映画『007』やTVドラマ『0011ナポレオン・ソロ』など海外作品によるところが大きく、どちらもさいとう・たかをがまんが化している。TVドラマはもう一つの大ヒット作『スパイ大作戦』があり、これは当時の私が一番楽しみに見ていた番組だった。他に『アイ・スパイ』『それ行けスマート』『0022アンクルの女』などがあった。超能力を持つスパイが活躍する『電撃スパイ作戦』というドラマもあって、すっかり忘れていたが、数年前に半世紀以上経っての映画化のニュースがあった。ただし、その後どうなったのかはわからない。超能力スパイというと日本には小松左京の『エスパイ』がある。映画化されたのはスパイブームも去った1974年だったが、併映作が山口百恵主演の『伊豆の踊子』だったので、見に行くのがちょっと恥ずかしかった。いや、むしろ『伊豆の踊子』のほうが面白かったけどね。

日本のTVドラマにもスパイ物があったとは思うが、あまり思い出せない。忍者や隠密もスパイだが、時代劇を除くと、警察や探偵でもない秘密諜報員を主役にしたドラマは『スパイキャッチャーJ3』ぐらいだろうか。その路線を受け継ぐ『キイハンター』も一応は国際警察特別室ということなのでスパイ物かも知れない。

ニューヨークの国連本部ビルの一室に「The Undercover Line of Internatinal Police(=国際秘密警察ライン)」略して「TULIP(チューリップ)」という組織のオフィスがある。この組織は世界各地に拡がっていて、そこに働くエージェントは「スパイキャッチャー」と呼ばれる。その日本支部のコードネーム=J3こと壇俊介が、悪の国際組織「The International Group of Espionage and Revolt(=国際謀略叛乱グループ)」略して「TIGER(タイガー)」と戦う物語である。

J3壇俊介は川津祐介、日本支部長のJ1は丹波哲郎、調査分析のエキスパートJ2は江原真二郎という配役で、1965年10月から66年3月まで全26回放送された。夜7時からの30分番組で「少年向けの冒険活劇」と銘打っていたが、今見ると、子供向けのドラマという感じはしない。当時は気にならなかったが、やたら煙草を吸うシーンが多かったり、男女の会話が多かったりする。出演は大人ばかりで子供は出ないし、現在の子供向けドラマとはずいぶん違う。私は、オープニングでJ3の愛車が空を飛ぶシーンが好きだったが、本編では海上を走るシーンもある。昔は陸空海自在の車かと思っていたが、エア・カーらしい。

DVDには、フィルムが現存する3回分と、1話の劇場版に再編集した2回分と予告編1話しか収録されていないのが残念だ。堀江卓がまんが化して『ぼくら』で連載していたのだが、私は読んだ記憶がない。子供のときに『ぼくら』はあまり読んだことがなかったかも知れない。ただ2010年にマンガショップから全2巻で単行本化され、それで読んだ。TVドラマは2回1話の全13話で、まんがは(増刊号に掲載された絵物語版を除くと)全6話。そのうち4話はサブタイトルが同じで、ドラマ版を基にまんが化したようだ。なお、まんがにはJ1の妹の紅子がJ4として第5話と第6話に登場するが、ドラマ版にそんな人物がいたかどうかはわからない。

少女まんがの実写化映画(1)

  • ごろねこ
  • 2025/05/20 (Tue) 21:09:53
まんがを映画やドラマなどに実写映像化した作品は多いが、原作と切り離して評価するのは難しい。表現方法が異なるので、どうしても原作通りにはできないが、といってあまり原作とかけ離れたものになってしまえば、映像化する意味がない。原作のストーリーをなぞるのではなく、原作の世界を表現することのほうが重要だと思うが、それには原作への理解と愛情がなくてはできないだろう。観客が、この作品は確かにあの原作を映像化したものだと納得できなければならないし、何よりも作品としての完成度が高くなければならない。

原作まんがを、大きく男性向け作品と女性向け作品に分けるとすると、女性向け作品を映像化したもののほうが、佳作が多いように私は思う。おそらく男性向け作品は特撮やアクションが必要なものが多く、そこを実写でうまく描けないと問題にならないし、かといってそれらにとらわれすぎて内容が疎かになっては本末転倒だろう。女性向け作品にも特撮などが必要なものはあるが、日常の生活における友情やら愛情などを主として描いた作品が多い。そうした登場人物の心の動きを細やかに描く人間ドラマのほうが、あまり予算をかけられない日本映画が得意とするところなのだろう。

私の感覚では、1990年代から女性向け作品の実写映画が多く公開されるようになったと思う。2000年代に入ると、私が原作のまんがを読んでいないどころか、もはや原作がまんがであることも知らないような映画が続々と公開されるようになった。
有名どころを挙げてみると、『NANA』(矢沢あい)、『天然コケッコー』(くらもちふさこ)、『花より男子』(神尾葉子)、『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子)、『君に届け』(椎名軽穂)、『うさぎドロップ』(宇仁田ゆみ)、『ヘルタースケルター』(岡崎京子)、『海月姫』(東村アキコ)、『海街diary』(吉田秋生)、『ちはやふる』(末次由紀)、『秘密‐THE TOP SECRET‐』(清水玲子)、『君の膵臓をたべたい』(住野よる・桐原いづみ)、『ミステリと言う勿れ』(田村由美)などが映画として実写化された。もしかしたら、この十倍ぐらいの作品が実写化されているのではないかと思うが、TVドラマも含めたら、相当な数になるのは間違いない。

そして、たとえばアトランダムに同数の男性向けの実写映画を選んで、これらと比べれば、おそらく女性向け作品のほうが、映画としての完成度が高い作品が多いと思う。おそらく、と言ったのは、私は全作品を見ているわけではないからである。上記の作品の中でも『天然コケッコー』『秘密』などは元々まんがを読んでいて、映画も見たのだが、『NANA』『のだめカンタービレ』などは映画は見たが、原作は読んだことがない。『ちはやふる』『君の膵臓をたべたい』などは評判を聞いているだけで、原作も映画も見たことがない。それでも、今までの経験から、女性向け作品に比べて男性向け作品のほうが満足度が低いだろうとは想像がつくのである。
昔は、女性向け作品は男性向け作品に比べて数も少なく、満足度が高かったわけではない。どちらにしろ、まんがを映画化した作品は、子供向けのまんがを子供向けの映画に仕上げただけの一段低いランクの映画という認識があったのだろう。

「女性向け」というわけではなく「家族向け」ということになるが、「男性向け」に限ってはいない実写化映画の最初といえば『サザエさん』(長谷川町子)だと思う。サザエさんは1956年から全10作が公開され、江利チエミが演じたことで知られているが、1948年に東屋トン子という元タカラジェンヌがサザエさんを演じた映画が3作あるという。TVでは、1955年から2年間、5分の帯番組として高杉妙子という女優がサザエさんを演じていたそうだが、江利チエミにもTV版があり、他に星野知子、浅野温子、榊原郁恵、観月ありさ、天海祐希なども演じている。その中には舞台で演じた人もいるが、舞台だけでサザエさんを演じたのは、熊谷真美、東ちづる、藤原紀香がいる。演じた女優が一番多いまんがのキャラクターは、おそらく「サザエさん」だろう。
ちなみに江利チエミ版第1作と同時上映だった映画は『てんてん娘』(倉金章介)の実写版だったという。
長谷川町子作品といえば、もう1作『いじわるばあさん』を忘れてはならない。これはTVドラマとしては4回実写化されているが、映画にはならなかったようだ。原作開始の翌年、1967年から早くも青島幸夫の『意地悪ばあさん』が始まった。ただこのときは途中で青島幸夫が参議院議員になってしまったので、意地悪ばあさん役は、古今亭志ん馬、さらに高松しげおに交代した。青島版は81年に再登場となるが、他に藤村有弘、市原悦子がばあさん役になったバージョンがある。

つまり、『サザエさん』などは「子供向け」ではなく大人が楽しめるホーム・コメディ映画だったわけだが、そうした作品を楽しむには家庭のTVのほうがふさわしく、TVが普及すれば、わざわざ映画化する理由はなくなったのである。もし、現在『サザエさん』の映画を作るならば、『三丁目の夕日』や『男はつらいよ』などのような人情噺とするしかないように思うが、元々が四コマまんがである『サザエさん』とはかけ離れたものになってしまうだろう。

少女まんがの実写化映画(2)

  • ごろねこ
  • 2025/05/23 (Fri) 20:25:17
1970年から80年代、映画をまんが化した作品は散見するが、その逆は少ない。
少女まんがの実写化はTVドラマではたまにあった。たとえば『サインはV!』(神保史郎・望月あきら)は岡田可愛主演で1969年にTVドラマ化されたが、最終回(70年8月)近くの7月には映画版が公開された。その後、73年には新たなチームが戦う坂口良子主演の新作ドラマが放映された。また『おれは男だ!』(津雲むつみ)は71年から72年まで森田健作主演でTV放映されたが、87年に後日譚(完結編)の映画が公開された。実際には15年が経過しているが、作品内は6年後という設定だったそうだ。このようにTVドラマに付随する形で、おまけのように作られる実写映画が多かった。

あるいは、前項に『エスパイ』と山口百恵主演の『伊豆の踊子』の二本立て上映について触れたが、そういえばその数年後の1977年、里中満智子原作の『愛情の設計』という映画が公開された。主演は桜田淳子で、同時上映は野口五郎主演の『季節風』だった。『季節風』は野口が歌う曲のタイトルでもある。俗にいうアイドル映画なのだが、その原作がまんがであることも多かった。
たとえば、薬師丸ひろ子『翔んだカップル』(柳沢きみお)、ひかる一平『胸さわぎの放課後』(村生ミオ)、近藤真彦『ハイティーン・ブギ』(後藤ゆきお・牧野和子)、青田浩子『月の夜 星の朝』(本田恵子)、小泉今日子『生徒諸君!』(庄司陽子)などがある。
アイドル映画というのはアイドルが主演をしている映画ぐらいの意味だと思うが、一段低く見られている感はあり、あるアイドルが映画の主演に決まった会見で「アイドル映画に見られないようにがんばる」と言ったという話もある。つまりアイドルを主役にして、人気まんがを実写化すればそこそこの観客は集まるだろうという魂胆が透けて見えるのである。
この頃は、まんがを原作として作る映画が、たとえば賞を獲るほど評価の高い作品になるなどとは、誰も思いもしなかったのだろう。

なお、『翔んだカップル』をこの時点でアイドル映画といって間違いではないが、薬師丸ひろ子に限っては、他のアイドルとは事情が異なる。デビュー作の『野生の証明』、この後の『セーラー服と機関銃』は、どちらも年間興行成績1位を獲得するほど特大ヒットしている。『翔んだカップル』ではヨコハマ映画祭の主演女優賞などいくつかの賞を受賞し、さらに『Wの悲劇』ではブルーリボン賞や日本アカデミー賞などで主演女優賞を獲得するなど、その後も映画中心の活躍を続け、アイドルではなく「最後の映画女優」と呼ばれることもあった。ちなみに薬師丸ひろ子が出演した次のまんがの実写化映画は『ALWAYS三丁目の夕日』(西岸良平)全3作である。

こうした中で、1979年の『ベルサイユのばら』(池田理代子)は初めから日仏合作の大作映画として作られた記念碑的な映画かも知れない。少女まんがの実写化映画として、これほどの大作は初めてだったと思う。主演のフランス人女優が出たスポンサーの資生堂のCMが、TVでやたら流れていたのを覚えている。ただ興行的には成功せず、私も見ていない。

1985年から87年まで『スケバン刑事』(和田慎二)がTVドラマで3シリーズ放映された。第1作は斎藤由貴、第2作は南野陽子、第3作は浅香唯(大西結花・中村由真)が主役だった。このうち第2作『スケバン刑事Ⅱ少女鉄仮面伝説』の後日譚映画『スケバン刑事』が87年に、第3作『スケバン刑事Ⅲ少女忍法帖伝奇』の映画版『スケバン刑事 風間三姉妹の逆襲』が88年に劇場公開となった。原作は少女まんがではあるが、ヨーヨーを使ったアクションが見どころなので、男人気も高く、それなりにヒットした。
また、87年には南野陽子は『はいからさんが通る』(大和和紀)の映画にも出演している。南野陽子は同じ年にまんがの実写化映画2本に出演していることになる。それがそんなに珍しいことなのかと思うかも知れないが、それは私にはわからない。ただ、この2本の映画によって、南野陽子は毎日映画コンクールのスポニチグランプリ新人賞を受賞している。調べた限りでは、少女まんがの実写化映画によって映画賞を獲ったのは南野陽子が初めてではないかと思われる。

余談だが、『はいからさんが通る』は映画の前の1985年にTVの単発ドラマで三田寛子主演で放送された。もう一本、2002年に『モーニング娘。新春!LOVEストーリーズ』という番組で3本のドラマが放送されたが、そのうち1本が石川梨華主演の『はいからさんが通る』だった(他の2本は後藤真希主演『伊豆の踊子』と安倍なつみ主演『時をかける少女』)。
また、2006年に『スケバン刑事 コードネーム=麻宮サキ』が映画公開されたが、サキ役は松浦亜弥で、その敵役の秋山レイカを石川梨華が演じていた。松浦はヨーヨー使いはポーズだけで後はCGですませていたそうだが、石川は特訓して実際にヨーヨーを操っていたという。前に書いたようにハロプロが好きなので、こんな作品も見ていたという、ただそれだけの話。

少女まんがの実写化映画(3)

  • ごろねこ
  • 2025/05/29 (Thu) 19:57:55
質・量ともに徐々に向上を続けてきた少女まんがの実写化映画だったが、一つの達成を見せたのが1990年だった。

映画雑誌「キネマ旬報」では、毎年、「キネマ旬報ベストテン」という賞を発表している。第1回は1924年度(なんと1世紀以上前)で、「芸術的に最も優れた作品」と「娯楽的に最も優れた作品」の2部門において、編集同人の投票を集計してそれぞれ10位まで決められた。ちなみに第1回の芸術的1位は『巴里の女性』で、チャップリンのサイレント映画。娯楽的1位は『幌馬車』で、ジェームズ・クルーズ監督のサイレント映画。1950年のジョン・フォード監督の『幌馬車』ではない。戦争による中断はあるが、1929年から始まった本場のアカデミー賞より年数も回数も上回り、歴史ある映画賞といえる。現在は15部門も賞があり、私などは日本映画と外国映画の作品賞の2部門だけで十分だと思うが、どうなんだろう。地味な雑誌の、年に1回のお祭りだから仕方ないか。

それまで、このベストテンにまんがの実写化映画が入賞することなど、ほとんどなかった。まんが原作の映画は一段低く見られており、現に一段低い出来だったので、当然のことであった。1976年に『嗚呼!!花の応援団』(どおくまんプロ)、1978年に『博多っ子純情』(長谷川法世)の実写化映画が、それぞれ7位と10位に入っているぐらいで、少女まんがの映画は一度も入賞したことがない。

だが、1990年。『櫻の園』(吉田秋生)を中原俊監督が実写化した映画が1位になった。
また、少女まんがではないが、『少年時代』(藤子不二雄Ⓐ)、『バタアシ金魚』(望月峰太郎)の実写化映画が、それぞれ2位、5位に入賞したのだ。『少年時代』は藤子Ⓐが、柏原兵三の小説『長い道』をまんが化したものだが、映画化に際して藤子Ⓐ自身が企画・製作も務めている。小説もまんがも原作としてクレジットされているが、まんがの映画化といって差し支えないだろう。
ともあれ、まんがの実写化映画が年間ベスト5の3作を占め、しかも1位が少女まんがの実写化映画なのだ。これを快挙と言わずして何と言おうか。というより、少年向け、少女向け、青年向けといった制限を持ちながらも、まんがという表現媒体が着実に成熟していた証しとなっただろう。物語を語る媒体として、まんがは小説や映画に比肩するものとなったことを証明したのである。
そして、先に述べたように、1990年代から2000年代に入って、少女まんがはもちろんまんがの実写化映画が急速に増えていくことになる。そういう意味で、この1990年は象徴的な年となった。

なお、最近で、まんがの実写化映画が最も多く公開された年は、2017年と18年の56本である。ただ少女まんがというジャンル区分が曖昧なため、少女まんがの実写化がどちらの年が多いか、あるいは別の年なのかははっきりしない。それぞれの年の日本映画の公開本数は594本と613本だから、どちらにせよ、1割近くはまんがの実写化映画だったことになる。ちなみに2018年に公開された少女まんがの実写化映画を公開順に挙げてみよう。(タイトルは映画のもので原作まんがとは若干異なるものもある。かっこ内は原作者名)

『プリンシパル~恋する私はヒロインですか?~』(いくえみ綾)、『坂道のアポロン』(小玉ユキ)、『ちはやふる 結び』(末次由紀)、『honey』(目黒あむ)、『となりの怪物くん』(ろびこ)、『ママレード・ボーイ』(吉住渉)、『兄友』(赤瓦もどむ)、『わたしに××しなさい!』(遠山えま)、『虹色デイズ』(水野美波)、『青夏 きみに恋した30日』(南波あつこ)、『センセイ君主』(幸田もも子)、『3D彼女 リアルガール』(那波マオ)、『パーフェクトワールド 君といる奇跡』(有賀リエ)、『あのコの、トリコ。』(白石ユキ)、『覚悟はいいかそこの女子。』(椎葉ナナ)、『ういらぶ。』(豊田美加作画・星森ゆきも原作・高橋ナツコ脚本)、『春待つ僕ら』(あなしん)、の17本である。
他に『リバーズ・エッジ』(岡崎京子)、『恋は雨上がりのように』(眉月じゅん)、『劇場版ドルメンX』(高木ユーナ)、『だめんず・うぉ~か~パッション編』(倉田真由美)などがあるが、掲載誌から少女まんがとはいえないし、ボーイズ・ラブまんがの『花は咲くか』(日高ショーコ)も除いておいた。

驚くのは、私はこのほとんどの原作まんがを知らないことである。読んでいないのはもちろんだが、そんなまんががあることすら知らない。これ以外に少年まんがや青年まんがの実写化映画があと34本公開されたが、そちらでさえタイトルぐらいは知っていても、ほとんど読んだことがない。以前から読んでいて、たまたまこの年に実写化された作品は、『羊の木』(いがらしみきお・山上たつひこ)と『いぬやしき』(奥浩哉)ぐらいだろうか。

かつて、まんがを原作にして少年少女向けの(お子様)映画が作られていた。だが、まんがの成熟とともにまんがが原作であっても一流の映画が作られるようになった。とくに女性向けのまんがは日常を描くことに長けた日本映画にはうまく嵌まることが多い。今やまんがが原作であることは珍しいことではなくなったが、出来も玉石混淆である。人気まんがが鳴物入りで映画化されることは、これからもあるだろう。それはそれで楽しみにしたいが、この胸に沁みる映画の原作は少女まんがだったんだと気づかされ、こっそりと少女まんがに耽ってみたいとも願っている。

『片腕マシンガール』

  • ごろねこ
  • 2025/06/16 (Mon) 20:05:18
前に『まだらの少女』の項で、その映画版の監督の井口昇作品にはまった時期があり、井口作品についても紹介したいと書いた。私が最初に見た井口監督作品が『片腕マシンガール』である。

2007年公開のロバート・ロドリゲス監督『プラネット・テラー in グラインドハウス』を見て、女主人公が失った片脚にマシンガンを装着してゾンビたちを相手に暴れまくるという話が、ホラー・アクションとして実に面白かった。その後、いつだったかは覚えていないが、何かで『片腕マシンガール』のことを知り、『プラネット・テラー』のマシンガンを装着するのを脚から腕に変えただけじゃないかと思ったが、かなり興味をそそられた。ただし実際にインスパイアされた作品かどうかは知らない。じつは、『片腕マシンガール』はアメリカ資本で作られて逆輸入した映画で、スタッフもキャストも全員日本人だが、一応「アメリカ映画」である。日本での公開は08年だが、アメリカでは07年に(配信)公開されていたので、『プラネット・テラー』の情報を得て『片腕マシンガール』を企画するのは時期的に無理そうだ。むしろ、『セーラー服と機関銃』のタイトルが発想元かも知れない。
私がこの映画を知った時点ではすでにDVDも販売されており、すぐに購入したと思う。劇場公開はレイトショーのみだったので、DVDの販売が早かったのだろう。09年には買って見たはずだ。さすがに、B級テイストとはいえロドリゲス監督作品は金のかけ方が違うが、それでも『片腕マシンガール』も結構面白かった。

純粋な日本映画では描けないような過激なシーンが多く、それがまた魅力になっていた。ただし、顔がマシンガンで粉々に飛び散ったり、体がズタズタに裂けて血が噴き出したりするといった残虐シーンが多いので、そういったシーンが苦手な人にはお勧めできない。

両親が亡くなり、弟・ユウと暮らしていた女子高生の日向アミだったが、ユウと友人タケシがいじめグループによって殺される。警察は自殺として処理するが、アミは誰かに殺されたと疑い、ユウの残したノートを手がかりに犯人を探して復讐を始める。そして主犯が、忍者服部半蔵の子孫であるヤクザの息子・木村翔であると突き止め、その屋敷に忍び込む。だが、翔の両親に捕まり、拷問を受けて左腕を斬り落とされてしまう。辛うじて逃げ出したアミは、自動車修理工場を営むタケシの両親スグルとミキの許に転がり込む。初めはタケシを守れなかった苛立ちからアミを受け入れられないミキだが、やがて共に復讐を誓う仲になる。スグルはアミのためのマシンガンを作るが、襲ってきた忍者たちに殺される。アミはマシンガンを左腕に装着して忍者たちを倒し、ミキと一緒に両親や仲間に守られた翔の隠れ家へと向かう。

この映画は、今まで私が見てきたどんなスプラッタ・ホラーよりも、血しぶきの量が多い。大量の血を噴出して死んでいく敵たちも、その血をシャワーのように浴びて闘い続けるアミたちも、みな真っ赤っ赤。その闘いは笑ってしまうほどバカバカしい。だが、すべての復讐が終わってアミが呟く。「終わったよ、ユウ。バカな姉さんだよね。きっと軽蔑してるよね」。すると、幻のユウが見えて、アミに拍手を送る。この唐突にしみじみとさせるシーンは何だ。その少し前まで、ドリル・ブラをつけた翔の母親に抱きつかれて、胸をドリルでえぐられていたのに。ハチャメチャなスプラッタ・バイオレンスでありながら、きちんとストーリーに落とし前をつけ、残虐シーンだけが売り物の作品とは一味違った。井口作品にはまった所以である。

それから、これより前の井口監督作品『まだらの少女』や『猫目小僧』などを見て、これより以後の新作は2009年の『ロボゲイシャ』から14年の『ライヴ』まで必ず見ていた。

主役のアミを演じた八代みなせはこれが映画デビュー作。その後もTVドラマなどに出演している。顔を見てもよくわからないが、刑事ドラマのクレジットなどで時々名前を見かけた。2023年に井口監督『異端の純愛』というオムニバス映画が公開されたが、その1編「片腕の花」で、八代は片腕のアミという女を演じている。
そして、アミと共に闘うミキ役は亜紗美。元はAV女優だったらしいが、この作品あたりから一般映画への出演が多くなったようだ。とくに井口作品では常連となって活躍している。以前、私が特撮ヒロインのZENピクチャーズ作品をよく見ていたとき、14年に10周年企画として出た『ヒロインアクションの歴史』という過去502タイトルを紹介するDVDを買ったが、その中に亜紗美が杉浦亜紗美として出演している作品が4作あった。主にアクション女優として多方面で活躍していたが、19年に『ツングースカ・バタフライ~サキとマリの物語~』という主演映画を最後に引退した。
じつは今回初めて知ったのだが、高校生役の八代みなせのほうが、その弟の友人の母親役をした亜紗美より年上だった。同じ年生まれだが、早生まれの八代が一学年上になる。何となく亜紗美のほうが10歳ぐらい年上だと思っていたので驚いた。決して亜紗美が老けて見えるわけではないが、演技が上手いということなのかな。

謹賀新年

  • ごろねこ
  • 2025/01/01 (Wed) 06:48:15
明けましておめでとうございます。
昨年は「ごろねこ通信」を更新できずに申し訳ありません。

理由はわかりませんが、
更新しても「転送エラー」になってしまい、送ることができませんでした。
「ごろねこ通信」のように容量の多いページは更新すらしていませんが、
唯一毎月更新していた「新刊まんが情報」でさえ、
更新したものを転送するのに7、8回エラーを繰り返した後に、
ようやく転送できるような状態でした。

もっともコロナ禍になった2020年の春から、私はほとんど外出しなくなり、
昨年(24年)は、映画館にも古本屋にも1回も行っていません。
地元に書店がなくなってしまったため、新刊本もほとんど買わなく、
たまにネットで購入する程度です。

つまり「ごろねこ倶楽部」として、
映画やまんがについて書くことがなくなってしまっていました。
今年は何とか、少しは復帰したいと願っています。

とりあえずこの掲示板で映画やまんがについて記すリハビリを始めて、
仕事が暇になる7月頃から、映画館などにもまた出かけようかと思っています。
先のことはどうなるかわかりませんが、
一か月ほどは、この掲示板を覗いていただければ、更新しているかもしれません。
よろしかったら、長い目でお付き合い下さい。

『女相撲☆どすこい巡業中!』

  • ごろねこ
  • 2025/01/02 (Thu) 15:58:52
今日、紹介するのは、昨年6月に刊行された『女相撲☆どすこい巡業中!』。
じつに興味深く面白い作品だった。
作者は「漫画の手帖」の「21世紀通信」などで知られる堀内満里子。

「女相撲」に関して私は何も知らないが、古くから神事としてあったらしく、
江戸時代中頃からは興行として流行したらしい。
明治期には上半身裸であったり、一時期人気となった盲目男性との取り組みだったりが禁止され、
薄い肉襦袢を身に付け猿股を穿くようになったという。
大正期にはそれぞれ小規模の一座が幾つかあり、興行として地方を巡業しており、
昭和30年代頃まで存在したという。
実際には女力士たちの余興の舞踊やサーカスのような曲芸が主となっていったようだが、
「相撲」と謳っているからには女力士同士の取り組みがなくなったわけではないだろう。

「女相撲」というと猥雑な見世物興行のようにイメージしてしまうが、
庶民の娯楽が少ない時代にあって、
人々が楽しみにしていた娯楽の一つであったという面が強いのかも知れない。
驚いたことに昭和30年代を知っている私であっても、
「女相撲」は聞いたことがなかったが、
地方の町では小規模なサーカスや演劇などの巡業興行が、たまに開催され、
それを報せるチンドン屋などがビラを撒きながら、町を練り歩いていたものだ。

この作品は大正期を舞台に、女相撲興行の一座を描く。
第1話で、新人力士と少年たちとの交流を通して、
いかがわしいと思われてもいる女相撲の健全性と娯楽性を示し、
作者の描こうとする「女相撲」を明らかにしている。
そして2話以降は、様々な事情からその世界に身を投じることになる「女」たちの物語が、
順に時間を遡って描かれるが、本来転落したはずの「女」にとって「相撲」が希望になっている。
その中に炭鉱婦や女馬賊の物語まで描かれているのは、作者の時代への幅広い興味が窺える。

実際には「女相撲」が必ずしも「希望の地」というわけでもないのだろうが、
救われる女たちの話になっているので、読後感がよい。
そして、おそらく誰が描いてもエロを抜きには描けないのではないかと思われるところを、
いい意味でまったくエロの要素がないので、純粋に人間ドラマを楽しめた。

Re: 謹賀新年

  • キヨシ
  • Site
  • 2025/01/02 (Thu) 20:38:27
ご無沙汰しております。
滝田ゆうファンのキヨシです。

その節は、大変にお世話になりました。
年賀状をみて、全然、ごろねこさんと交流がなくなっていた事に気づき
掲示板にきてみました。

サイトが不調なのは、ほとんどのサイトがSSL化されたこともあるのでしょうか。
通信内容の暗号化でセキュリティーをあげるため、SSLという方式にしていないと、危険なサイトとして扱われるようになりました。

SSL化すると、アドレスの最初が「https」になって「s」が付け足されます。
今の、このサイトを見ると、「http」のままなので、SSL化されていない事になります。
http://goronekoclub.web.fc2.com/

SSL化は借りてるレンタルサーバーが大手なら、大概は、比較的簡単に、移行が出来るようになっています。
企業がセキュリティーを上げるなら有料のSSL化の方が良いとは思いますが、個人で顧客情報や金銭のやり取りがある訳でなければ、レンタルサーバーによって無料で利用できるSSLが用意されていたりするので、それを利用すれば良いと思います。

SSL化。

  • ごろねこ
  • 2025/01/03 (Fri) 08:24:03
お久しぶりです。
キヨシさんもお元気でしたか。

そう言われてみれば、2、3年前にSSL化についてのメールが来ていた気がします。
何を言っているのかわからなかったので、何もしませんでした(笑)。
掲示板のほうは自動的にSSL化してありましたね。

そこで、昨夜さっそく、サイトもSSL化しておきました。
ご助言をありがとうございます。
すっかりと、
世の中の流れについていけない引き籠り老人に、なっています。

ただ、転送不調の原因がこれかどうかはまだ確認していないので、
そのうち確認したいと思います。
不調のままなら、そろそろサイトも閉じるかと思っていましたが、
直っていれば、まだ残しておきたいですね。
更新はほとんどできませんけれど。

何かありましたら、またご助言をいただけると、
嬉しく思います。

『大友克洋全集』

  • ごろねこ
  • 2025/01/04 (Sat) 20:20:44
『大友克洋全集』は、大友作品をまんがだけでなく、できる限りすべて網羅すると謳っていたので、これはすごいと思い、購入することにした。だが、全何巻でどのくらいの期間で刊行するのか、ということはわからなかった。とくに発表されていなかったように思う。
2022年の1月に刊行された第1回配本(『童夢』と『アニメーションAKIRA ストーリーボード①』の2冊)に、挟んであった「全巻購入特典応募券」によって、全41巻を予定しており、第1回配本の2冊はそのうち第1期全11巻の2冊であると知った。1月から9月まで隔月で2冊ずつ計10巻刊行され、11月に『銃声』1冊が刊行されて第1期11巻が完結する予定と記されていた。

そして、1、3、5月の第3回配本までは、タイトルの変更はあったものの6冊が順調に刊行された。
だが、その後7、9月に刊行はなく、11月に当初のラインナップにはなかった『アニメーションAKIRA レイアウト&キーフレームス①』が刊行された。そしてこの後、スケジュールが大幅に遅れ出す。その②巻は2023年の5月に刊行され、③巻(完結)にいたっては2024年の11月に刊行されたのである。その前の23年7月に『銃声』と『Fire-Ball』が刊行されており、③巻で第1期全11巻は完結したが、2022年中に完結する予定だった第1期は24年末まで丸3年かかってしまったわけである。ただ、③巻の刊行前の24年8月には第2期の『G……』と『AKIRA①』が先に刊行され、丸3年で13冊刊行されたことになる。

第1期に予定されていた『Scripts1』と『The Live Action蟲師』は2期以降に回されたことになるが、『アニメーションAKIRA レイアウト&キーフレームス』は、『Scripts1』に収録する予定だったものを絵を中心に独立させて全3巻にまとめたものかも知れない。『蟲師』は漆原友紀のまんがだが、オダギリジョー主演で実写映画化されたとき大友が監督と脚本を担当している。大友作成の脚本や絵コンテなどが2期以降に刊行されるだろう。

さて、第2期には『AKIRA』本編の第1巻が刊行された。『AKIRA』はKCデラックスで全6巻で刊行されたが、この全集ではおそらく巻数は増えるだろう。連載時の扉絵やカラーページがそのまま再現されており、ページの左右も連載時と同じになっている。KCデラックスと異なる絵のコマは、連載時に戻したものであろうか。第1期の『アニメーションAKIRA ストーリーボード』は大友が描いた原作とは違う展開の『AKIRA』として貴重だし、『レイアウト&キーフレームス』にいたっては要するに大きなパラパラまんがなのである。もっとも私はどうもうまく見ることができないのだが。この三種類の『AKIRA』が収録してあることでも、この全集がかなり特異なことがわかるだろう。

ともあれ、全41巻の全集のうち13冊刊行されるのに3年かかった。このペースでいっても残り28冊が刊行されるのにはあと7年かかる。果たして私は完結を見届けることができるのだろうか。

Re: 謹賀新年

  • キヨシ
  • Site
  • 2025/01/05 (Sun) 09:04:43
SSL対策、お疲れさまでした。
元々は、Googleのブラウザchromeで、SSL対策をしていないサイトを表示しようとすると、初期の頃は大袈裟に危険なサイトとして警告することから端を発し、他も右へ倣えのような感じで強制的に一般化されたので、いまだに知らないでSSL化していない人も多いようです。

個人的なニュースとしては、埼玉県羽生市で、レトロ博物館を個人で始めました。

滝田ゆう展示も許可を得て、展示しています。

キヨチ博物館(X(旧Twitter))
https://x.com/KiyochiMuseum

https://www.tuginani.com/tuginani/

https://note.com/yaen2940/n/n425babfde411

ごろねこさんにも、当時、所持していなかった滝田ゆうの貸本「ガバチョン紳士」と滝田ひろし貸本をご提供いただいた事を思い出します。
その説は、ご協力をありがとうございました。

お陰様で、現在は、ご遺族よりも滝田ゆう氏の貸本は持っていると思います。

『キヨチ博物館』

  • ごろねこ
  • 2025/01/05 (Sun) 21:41:27
博物館、すばらしいですね。
キヨシさんが、そうした志をお持ちだったとは知りませんでした。
まんが本などの紙類だけでなく、ゲーム機など機械類まで(むしろそちらが主かな)あるのがすごいですね。

何となく集まってしまったまんが本を、雑然と積んでおくのではなく、一望できるように並べてみたいとか、
図書館みたいに整理して人にも見てもらいたいとかは、私も思ったことがありますが、
夢のまた夢でした。

そろそろ終活に入ろうと、
昨年の11月には、まず映画関係の本や雑誌を1200冊と、
プレスシートやスチールを保存しておいたスクラップブックを50冊ほどを処分しました。
今年中には3000冊以上ある文庫本を処分しようと思っています。
文学書やまんが本もいずれは処分することになるでしょうが、
私のところの本たちに比べて、キヨシさんのところの本たちは幸せですね。

人はそれぞれ、本もそれぞれで、仕方がないことですけれど。

『映画採点表』

  • ごろねこ
  • 2025/01/07 (Tue) 20:19:40
昔、映画を見るのも仕事のうちだった頃は、年に平均80本ぐらいの映画を見ており、映画の仕事がなくなって「ごろねこ倶楽部」を始めた頃でも週に1本ぐらいの割合で見ていたと思う。それが、だんだん映画館に行くのが億劫になり、見る本数も減っていったが、コロナ禍で決定的となった。

2020年の2月に『1917 命をかけた伝令』を見た後、2021年の12月まで映画館には行かなかった。そのときも1回行っただけで、その後、また1年空いた。2023年は月に1本程度見に行っていたが、12月に『ゴジラ -1.0』を見たのが最後で、以来、映画館には1度も行っていない。

当サイトの「映画の部屋」の「映画採点表」は、『1917 命をかけた伝令』が最後になったままなので、その後見た映画をここに補足しておく。コメントは付けないが、映画の出来★と私の好み☆を、3段階評価で記しておく。

〇2021年
12月『ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ』★★ ☆☆
〇2022年
11月『ザリガニの鳴くところ』★★★ ☆☆
12月『ブラックアダム』★ ☆
〇2023年
2月『アントマン&ワスプ クアントマニア』★★ ☆
3月『フェイブルマンズ』★★ ☆☆
  『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』★★ ☆☆
6月『ザ・フラッシュ』★★ ☆☆
7月『インディ・ジョーンズと運命のダイアル』★★ ☆☆
  『君たちはどう生きるか』★★ ☆☆
9月『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』★★ ☆
10月『ルー、パリで生まれた猫』★★ ☆☆
  『ザ・クリエイター 創造者』★★★ ☆☆☆
  『ドミノ』★★ ☆☆
12月『ゴジラ-1.0』★★ ☆☆☆

映画鑑賞

  • ごろねこ
  • 2025/01/10 (Fri) 16:13:31
さて、私が映画館に行かなくなったからといって、映画を見なくなったわけではない。以前は映画館で見ることができなかった映画は、ブルーレイやDVDで買って見ていた。中古も含めれば年に100枚近く買っていたと思う。ただ、数が増え過ぎて手に負えなくなっているので、今はあまり買わないように心がけている。24年は映画は7枚、音楽ライブは4枚しか買っていない。

今は、ほとんどの映画はCS、BS放送で見ている。5年ほど前から地上波TVはまったくといっていいほど見なくなった。TVは、映画やライブをCS・BSで見るぐらいである。仕事場はケーブルTVなので、映画専門の無料チャンネルだけでも7つある。それで見ているのである。

ただ私は映画とは映画館で見るものだと思っている。暗い館内、大きなスクリーン、迫力ある音声、ただ目を凝らして没入する物語の世界。それが映画だと思っている。ところが、TVで見る映画は映画の世界に没入するのではなく、なるほど、こういう映画なのかと、ストーリーや映像や俳優の演技を確認している気分になってしまう。映画館で見るのとTVで見るのとでは、映画の印象もかなり違うものになる。

CS・BSで映画を見るには、まず、翌月のTV番組表が送られて来たとき、まだ見たことがない映画はもちろん、見たことがある映画でも、見たい映画をチェックする。これが大体、月に20本から25本ぐらいになる。CS・BSは24時間放送していて、リアルタイムで見るのは難しいので、チェックした映画は録画しておいて見ている。といっても全部録画するわけではなく、映画情報によっては、見なくていいや、と気持ちが変わる映画もあるので、実際に録画するのは月に15本ぐらいになる。録画した映画はすぐに見るようにしているが、時間が経ってから見る映画もあるし、結局見ないまま消去してしまう映画もある。

見た映画の中には、DVDにダビングして保存しておく作品がある。そうした映画が毎月5本から10本ぐらいだろうか。こうして映画を見るようになって1年ほど経ったが、録画したDVDは80枚ほどなので、こんなものだろう。ただ、最初の年なのでDVDに保存した映画が多くなってしまったが、もう少し減らしたいと思っている。

DVDにして残しておく映画は、必ずしも佳作・名作というわけではない。たとえばどんなにいい映画でも、人間ドラマを見返したいとは、私は思わない。ジャンルでいうなら、SF・アクション・サスペンス・ホラーが多い。出演した俳優がいいとか、映像が美しいとか、アクションが凄いとか、そんな理由でDVDに残しておくことが多い。といって買ったブルーレイやDVDですら2回以上見ることはめったにないので、DVDに残しておいてもほとんど見返すことがないのが実情である。ついつい集めたくなってしまうマニアの悪しき癖なのだろう。

たとえば、DVDに残した映画を一つ挙げてみると……。
11月にムービープラス・チャンネルで、『0011ナポレオン・ソロ』の映画版全8作を放送したが、これは全作DVDに保存した。「ナポレオン・ソロ」は私が小学生のときにTVで見ていたドラマである。劇場版が8作作られ(劇場でも公開され)、レギュラー放送の中に組み込まれていたので、全作見たはずだが、まったく覚えていなかった。TVでは、ソロと相棒のイリヤ・クリヤキンの声を矢島正明と野沢那智が吹き替えていて、その声の印象が強かったので、字幕版だと何だかしっくりこない。第1作(TVでも第1回)の『罠を張れ』は、ソロを撃った銃弾が防弾ガラスに当たって蜘蛛の巣のように亀裂が入るという、タイトルムービーに使われるシーンが有名だが、この「絵」はスパイ・アクションものを象徴する「絵」として最も優れていると、私は思っている。ただし映画の中では大したシーンではない。

MCU(1)

  • ごろねこ
  • 2025/01/14 (Tue) 21:20:46
『MCU』とは「マーベル・シネマティック・ユニバース」のこと。
マーベル・コミックのヒーローたちが活躍するコミックスを原作として、マーベル・スタジオが製作した映画で、同じ世界観で作られているシリーズの総称。2008年5月公開の『アイアンマン』を第1作とする。アメリカでは6月に第2作『インクレディブル・ハルク』が公開されたが、日本では『インクレディブル・ハルク』が8月、『アイアンマン』が9月公開と、公開順が逆になった。

私は、昔TVドラマの『超人ハルク』が好きだった。TV版のハルクはボディビルダー出身のルー・フェリグノという俳優が体を緑に塗って演じていたので、普通よりは大男という程度だったが、ハルクを追う新聞記者の存在があり、『逃亡者』や『インベーダー』のように追跡から逃れながら行き着く町で事件を解決していくという面白さがあった。またアイアンマンは日本では馴染みのないヒーローで、おそらく日本にはこれが初登場だと思われる。私は中高校生の頃、アメコミに興味を持ち、神保町で買っていたが、『スパイダーマン』や『アイアンマン』もその中にある。アイアンマンはロボットのような外見が好みだったのだと思う。
ともあれ、こんな長く続くシリーズとは思わず、この2作からMCUを見始めたのだった。

なお、ハルクとなるブルース・バナーをエドワード・ノートンが演じる『インクレディブル・ハルク』の前に、エリック・バナが演じる『ハルク』が作られたが、そちらはMCU作品にはカウントされていない。もっともMCUの中でも、ブルース・バナー役は、エドワード・ノートンからマーク・ラファロに交代している。
他にも「MCU」にカウントされないマーベル作品は多い。ソニー・ピクチャーズが製作したトビー・マグワイア主演の『スパイダーマン』3作(02~07)、アンドリュー・ガーフィールド主演の『アメイジング・スパイダーマン』2作(12・14)はMCUには入らない。だが、次にソニーが製作したトム・ホランドの『スパイダーマン』3作(17~21)はMCU作品となり、トム・ホランドは他にも3作のMCU作品にスパイダーマンとして出演している。ソニーには他にもスパイダーマンの敵役を主人公とした『ヴェノム』3作(18~24)、『モービウス』(22)、スパイダーウーマンを描く『マダム・ウェブ』(24)があるが、これらもMCUには数えられない。また20世紀フォックス製作の『X-MEN』新旧7作(00~19)、『ウルヴァリン』3作(09~17)、『ニューミュータント』(20)、『デッドプール』2作(16・18)もMCU作品ではないが、デッドプールの3作目に当たる『デッドプール&ウルヴァリン』だけはMCUシリーズに入っている。今後、デッドプールやウルヴァリンがMCUに登場するようになるのかはわからない。
このようにすべてのマーベル映画がMCUであるわけではない。

さて、MCUにはフェーズがあり、フェーズ1から3までを「インフィニティ・サーガ」、4から6までを「マルチバース・サーガ」と呼んでいる。現在はフェーズ5の途中である。

フェーズ1は『アイアンマン』から『アベンジャーズ』までの映画6作。アイアンマン、ハルク、ブラック・ウィドウ、マイティ・ソー、キャプテン・アメリカたちの登場を描き、ジ・アザー率いる宇宙種族がソーの義弟であるロキと共に地球侵攻をしてきたとき、アベンジャーズとして結束して撃退する。
フェーズ2は『アイアンマン3』から『アントマン』までの映画6作。ジ・アザーの主人であり、まだ見ぬ敵サノスとの戦いに備えて、アイアンマン=トニー・スタークはロキの杖の宝石から平和維持のために人工知能ウルトロンを作り出す。だが、自我に目覚めたウルトロンは暴走し、人類を抹殺しようとする。このウルトロンをアベンジャーズと新たに加わった仲間が倒す。
フェーズ3は『シビルウォー/キャプテン・アメリカ』から『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』までの映画11作。アイアンマンとキャプテン・アメリカは意見の相違と過去の因縁から対立し、アベンジャーズは分裂する。サノスはエネルギーの結晶石である6種のインフィニティ・ストーンをヒーローたちと戦って次々と集め、宇宙の均衡を保つために全宇宙の生命体の半分を消すことに成功する。その後、ソーがサノスを倒すが、アベンジャーズの生存者たちは、タイムトラベルによってサノスより先にストーンを手に入れて世界を復元しようとする。だが、過去のサノスも生命体の半分を消すだけでなく世界を粉々にして作り直すことへと考えを変え、大量の軍勢を集めてアベンジャーズを襲う。アベンジャーズも新しい仲間や加勢する軍勢が加わり、一大決戦となる。ついにアイアンマンがインフィニティ・ストーンによってサノスの軍勢を消し去るが、その強大な力によって自らの命も失われてしまう。

各作品ごとに出来不出来はあるものの、フェーズ1から3までの全23作は、アベンジャーズとサノスとの戦いを描く『インフィニティ・サーガ』として面白かった。数多くのヒーローが登場し、様々な戦いを経て、最終決戦へと至る物語は、たとえば『007』や『男はつらいよ』などの話数を重ねるシリーズとはわけが違う。もちろん、すべてが当初の予定通りではないのだろう。興行的な成功が内容の充実ともなり、稀有なシリーズを完結させたといえる。
10年以上の間、本当に楽しませてもらった。

MCU(2)

  • ごろねこ
  • 2025/01/19 (Sun) 21:03:49
フェーズ3までのMCU「インフィニティ・サーガ」を楽しんで見た私だったが、フェーズ4以降はどうも楽しめない。面白いと思う映画もないわけではないが、つまらない映画が多い。その理由を説明しよう。

まず前提として、2009年にウォルト・ディズニー・カンパニーがマーベル・エンターティンメントを買収したことがある。といって、それは何の問題もないことのはずで、当初はその通りだったが、ディズニーがポリコレ(ポリティカル・コレクトネス=あらゆる表現を差別・偏見のないものに正す)やDEI(ダイバーシティ・エクイティ・インクルージョン=多様性・公平性・包括性)やLGBTQ+(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー・クエスチョニング・プラスアルファ)に強く配慮し始め、それが顕著になっていったのが2020年頃だった。
たとえば過去のアニメ―ション映画を実写化したとき、リトル・マーメイドや妖精ティンカーベルを黒人女優にキャスティングした。それはまだしも、「雪のように肌が白い子」から名付けられた白雪姫をラテン系女優に演じさせるのは、多様性の解釈を間違っている。

「MCU」は、フェーズ3の最終作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』を2019年の6月に公開してから、コロナ禍の影響もあってか、2020年には何の作品も公開しなかった。フェーズ4の映画は2年後の2021年の7月に公開された『ブラック・ウィドウ』が最初だった。だが、フェーズ4からは劇場公開される映画だけでなく、ディズニー・プラスで配信されるドラマやアニメも「MCU」の正式な作品となった。たとえば、『ブラック・ウィドウ』の前に『ワンダヴィジョン』『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』『ロキ・シーズン1』と3シリーズのドラマが配信され、フェーズ4は7作の映画と7作のドラマと2作のアニメから成っている。

まず目を惹くのは、最初のドラマ『ワンダビジョン』もフェーズ4最初の映画『ブラック・ウィドウ』も女性が主役であることだ。フェーズ3までは女性をタイトルロールにした映画は21作目の『キャプテン・マーベル』しかなかった。ちなみに黒人がタイトルロールなのは『ブラックパンサー』だけ。それが、フェーズ4は他に『ミズ・マーベル』『シー・ハルク』が女性、『ファルコン』『ブラックパンサー』が黒人、『シャン・チー』が東洋人と多様性に富むようになった。多様性があることに不満はない。むしろ望ましいことだろう。だが、このヒーローはゲイだとか、誰と誰がレズビアンだとかいった要素がちらつき始めてくるとうっとうしくなる。

ただそんなことよりも、私にとっては、MCUが映画だけでなく、ドラマやアニメを組み込んだこと自体が問題である。映画の人気にあやかってディズニー・プラスの視聴者を増やそうとしたのであろうか。
じつはフェーズ3まででも、MCUのスピンオフのドラマは何作か作られていた。たとえば、アベンジャーズを結成させた国際平和維持組織S.H.I.E.L.D.という組織の活躍を描く『エージェント・オブ・シールド』やマーベル・ヒーローを主人公にした『デアデビル』などである(ベン・アフレックがデアデビルを演じた03年公開の映画『デアデビル』やそのヒロインを主役にした05年の『エレクトラ』はMCU以前の作品)。だが、これらのドラマはあくまでもスピンオフであり、MCUシリーズではなく、ディズニー・プラスの配信ではない。これらを見ていなくてもMCU映画を見るのに支障はない。逆にMCUを見ていればドラマの背景への理解は深まるが、ドラマを見ていないとMCU映画がわからなくなるなどといったことはないのである。現に私はスピンオフのドラマは、何も見ていない。

ところが、ドラマもMCUに組み込まれてしまったフェーズ4以降、ドラマは「ディズニー・プラス」で配信されるようになり、ドラマを見ていないとMCU映画にわからないところができてしまうことになった。
たとえば、フェーズ3の9作目の『キャプテン・マーベル』は、時間的にはフェーズ1以前の物語であり、次に登場するのがフェーズ3の10作目の『アベンジャーズ・エンドゲーム』である。この2作によって、元アメリカ空軍のテスト・パイロットだったキャロル・ダンヴァースがある事情によりほぼ不老の超人キャプテン・マーベルとなり、サノス軍との戦いに参戦する、という展開が描かれた。そして、キャロル・ダンヴァースが久々に登場したMCUのフェーズ5『マーベルズ』では、彼女の前に、彼女に復讐しようとする敵が現れる。だが、そのとき彼女は、カマラ・カーンとモニカ・ランボーという女性の超人たちと出会う。そして三人が能力を使うたびに、なぜか彼女たちの居場所が入れ替わってしまうという現象が起こったのだ。この運命的な出会いから、三人はチームとして戦うことになる。
カマラ・カーンはフェーズ4のドラマ『ミズ・マーベル』の主役の高校生で、自分の体を自在に変形できる能力を得ている。モニカ・ランボーは、キャロルと軍の同僚だったマリア・ランボーの娘で、『キャプテン・マーベル』に少女として登場したが、やはりフェーズ4のドラマ『ワンダビジョン』で超常能力に覚醒したことが描かれているという。つまり、この二人はドラマを見ていれば周知のメンバーなのだが、ドラマを見ていない私には、突然現れた意味不明の人物に思えてしまうのである。

また、フェーズ2の『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』でアベンジャーズの敵として登場したワンダ・マキシモフは、フェーズ3の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でアベンジャーズの一員となり、アベンジャーズの分裂時に人造人間ビジョンと逃亡して隠遁する。その後、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』でサノスと戦い、惜しくもストーンの力で消されてしまうが、『アベンジャーズ/エンドゲーム』で復活し、勝利する。そして、次にワンダが登場する映画はフェーズ4の『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』なのだが、そのワンダは最悪のヴィランになっている。その間に位置するドラマ『ワンダヴィジョン』を見ていないと、このワンダの変貌はわからない。

このように、映画を見ているだけでは話がわからなくなってしまった。ドラマまで追いかける気のない私にとって、興味を失わせる理由である。

MCU(3)

  • ごろねこ
  • 2025/01/24 (Fri) 20:57:00
そうはいっても私は、フェーズ4以降もMCUを映画だけは見ている。最初の映画は『ブラック・ウィドウ』で、元々スカーレット・ヨハンソン演じるこのキャラは魅力的だった。『エンドゲーム』で死んでしまったのを残念に思っていたので(この時点で、フェーズ4以降が「マルチバース・サーガ」であると発表されていたかどうかは記憶にない)、もしかしたらブラック・ウィドウが死んでいない世界線の話かと思ったが、アベンジャーズが分裂していた時期の事件を描いていて、最後には彼女の墓が映る。異世界の話ではなかった。ただしドラマのほうではマルチバースの異世界にいるブラック・ウィドウが登場するらしい。

次の『シャン・チー/テン・リングスの伝説』はカンフーの達人の話かと思ったら怪獣映画で、『エターナルズ』は人類を守る不老不死の種族で、設定ばかりが壮大な映画だった。どちらもマルチバースには関係ない。

「[ユニ]バース」の「単一」に対して「[マルチ]バース」は「多数の」という意があるので、多数の世界、つまり多元宇宙のことらしい。昔からSFで使われていた「パラレルワールド(並行世界)」と同じようだが、パラレルワールドという概念は、ある現象から分裂して並存する世界、ということらしいので、どの現象でもどの世界でも常に分裂していけば無限に並存する世界が存在することになる。それに対してマルチバースは、元々この宇宙は可能性のある無限の宇宙の集合体であるという捉え方なのだろうか。イメージとして、パラレルワールドは無限に枝分かれする樹木のような世界を形成するが、マルチバースは可能性のある無限の樹木が育つ森のような世界なのかも知れない。そのへんは私にはわからない。ともあれ、世界は一つではなく、少しずつ違った世界が無限に存在していると考えるのが「マルチバース」である。

そして、これらの世界は互いに行き来することはできないのだが、フェーズ4『スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム』で、そのタブーが破られることになる。
フェーズ3最終作『スパイダーマン/ファー・フロム・ホーム』で戦ったミステリオに正体を暴露されたスパイダーマン=ピーター・パーカーは、ドクター・ストレンジに頼み、ピーターがスパイダーマンであることをすべての人が忘れる呪文を唱えてもらう。だが、呪文を唱える途中でピーターが邪魔したために魔法は失敗し、逆にピータ―がスパイダーマンだと知る者たちを並行世界から呼び寄せてしまうことになる。
それは、MCUではない映画の『スパイダーマン』3部作に登場していたトビー・マグワイア演じるピーター=スパイダーマンと、そこに出ていた悪役、グリーン・ゴブリン、ドクター・オクトパス、サンドマン。また同じく『アメイジング・スパイダーマン』2作に登場していたアンドリュー・ガーフィールド演じるピータ―=スパイダーマンと、そこに出ていた悪役、エレクトロとリザードだった。ちなみに、グリーン・ゴブリンは『アメイジング・スパイダーマン』にも登場しているが、ここは『スパイダーマン』のほうのグリーン・ゴブリン(演じるのはウィレム・デフォー)が出ている。スパイダーマンが3人出ているのだから、グリーン・ゴブリンが2人出てもいいように思うが、複数の同じキャラが登場するのは、主役のスパイダーマンだけにしたかったのだろう。

MCUではない映画から、それぞれオリジナルのスパイダーマンを集結させるというアイデアは面白く、それを実現させるために「マルチバース」という設定を使う発想はよかったと思う。だが、MCUのトム・ホランドが演じるピータ―がいる世界は「アース616」、トビー・マグワイアのピータ―がいるのは「アース96283」、アンドリュー・ガーフィールドのピータ―がいるのは「アース120703」と説明があり、無限にある世界に番号が付くのは矛盾だろう。
制御不能となったマルチバースを元に戻すため、その原因となったアース616のピータ―は、すべての人々から自分の記憶を消すようにドクター・ストレンジに頼む。ストレンジの呪文は成功し、アース616に召喚された敵も味方もそれぞれの世界へ帰還する。だが、同時にこの世界でもすべての人からピータ―の記憶は失われてしまうのである。カオスとなった世界の狂乱から、一転して孤独の底に沈むスパイダーマン。この落差の余韻は深く、スパイダーマンの今後が期待される(一応、映画とドラマが予定されている)。

この1作だけだったなら、マルチバースの設定を面白く使い、3人のスパイダーマンを一堂に会して見せたことを喜んだかも知れない。登場人物は混乱しているが、物語の舞台はあくまでもこの世界(アース616)であり、異世界から訪問者が来て事件が起こり、訪問者が帰って事件が解決するというシンプルな展開だからだ。
だが、次の『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』になると、映像やアクションの見せ場が多く見ていて楽しくはあるが、ストーリーとしては辻褄の合わないメチャクチャな世界を見せられている気分になる。

MCU(4)

  • ごろねこ
  • 2025/02/02 (Sun) 21:30:23
『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』のあらすじを簡略に紹介しよう。

マルチバースの世界間は誰であっても行き来することはできないが、あるときドクター・ストレンジが助けた少女チャベスは、自分で制御はできないものの危機に陥るとマルチバース間を移動できる能力を持っていた。そのせいで何者かに狙われているのだという。ストレンジは異世界の自分がチャベスを守って死んだことを知って埋葬し、マルチバースに詳しいワンダ・マキシモフに助力を依頼する。だが、じつはワンダこそチャベスを狙っていた黒幕であった。ストレンジの仲間の魔術師たちは大勢ワンダに殺され、チャベスも捕らわれてしまう。だが、そのときチャベスの能力が発動し、ストレンジと共に異世界へと飛ばされる。
ストレンジやワンダの魔術の世界には、「ダークホールド」という禁断の書物と、それに対抗する「ヴィシャンティ」の書がある。「ダークホールド」には異世界の自分に乗り移るドリームウォークという魔術があり、それを使って、ワンダはストレンジたちを追って来る。ワンダはビリーとトミーという双子の息子を失っていたが、異世界のワンダが皆息子たちと幸せに暮らしていることを羨み、自分が息子たちの母親に戻るために異世界へ移動できるチャベスの能力を奪おうとしていたのだ。

ワンダが強大な力を持つヴィランになっていること、なぜチャベスの能力を知り、狙っているのかということは、ドラマ『ワンダヴィジョン』を踏まえているらしいので映画を見ただけでははっきりとはわからない。

一方で、この世界にはアベンジャーズは存在せず、代わりにイルミナティというチームがあった。チームの代表は(『ドクター・ストレンジ』でストレンジの兄弟子だったが敵となった)モルドで、他にX-MENのリーダー・プロフェッサーX、ファンタスティック・フォーのリーダー・ミスター・ファンタスティック、キャプテン・マーベルなどがいて、この世界のストレンジは裏切り者としてすでに死んでいた。そして、チャベスを追って来たワンダは、たったひとりでイルミナティを全滅させてしまう。ワンダはチャベスを捕らえ、ストレンジをまた異世界へと飛ばす。その世界のストレンジは三つの目を持つ邪悪な存在で、他世界のストレンジを次々と抹殺していた。だが、ストレンジはその者を打ち負かし、ドリームウォークを使って元の世界で埋葬した自分の亡骸に乗り移り、ワンダの許へ戻る。ワンダの力は強大だったが、ストレンジはチャベスに自分の力を信じるように言う。チャベスの能力を奪おうとするワンダに、チャベスはその世界のワンダの家への道を開く。そこで子供たちに怖れ嫌われたワンダは自分の過ちを悟り、すべての世界の「ダークホールド」を焼却し、崩壊する城の中に我が身を投じる。

初めてこの映画を見たとき、次々と疑問点が浮かんで来て、ストーリーがよくわからなかった。疑問点は(もしかしたら劇中に説明があったかも知れないが)、たとえば、マルチバースの世界間を移動できる少女チャベスはなぜ全マルチバースに一人しか存在しないのか、マルチバースを移動できるのはチャベスだけなのに彼女と一緒ならストレンジでも移動できるのか、それならワンダは能力を奪うのではなくチャベスと一緒に移動すればいいのではないか、など基本的な疑問はもちろん、何よりチャベスという少女が正体不明で、幼いとき初めて能力が発動し、両親が異世界へ吹き飛ばされてしまうが、その後、どのように成長してきたのか。チャベスの両親は女二人のようだが、その設定もよくわからない。そして、ワンダがどうしてチャベスの能力を知って追いかけているのか、ということまで、わからないことが多すぎる。

だからメチャクチャな世界を見せられている気分になるのだが、じつはマルチバースといっても、主な世界は二つしか出て来ない。本編の世界(アース616)とイルミナティのいる世界(アース838)である。他にチャベスを守っていたストレンジの世界、三つ目のストレンジがいる世界が少し出て来るだけである。結局は、ストレンジが二つの世界に亘ってワンダから少女を守るという、シンプルな話であり、マルチバースについてはあれこれ考えずに見るのがいいのだろう。

その後、『ソー/ラブ&サンダー』にも『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』にもマルチバースは出て来ない。ブラックパンサーは演じる俳優が亡くなり、映画上もブラックパンサーが死んだ設定になった.これこそ別の俳優が演じるマルチバースのブラックパンサーを召喚すればいいと思うが、そうはならなかった。

そしてフェーズ5に入り、『アントマン&ワスプ/クアントマニア』である。アントマンはすでに極ミクロの量子世界を経験していたが、再びその世界に吸い込まれてしまい、征服者カーンと出会う。カーンは過去・未来とあらゆる時間軸に干渉できる能力を持ち、あらゆる時間軸に様々なカーンが存在する。これもマルチバースということらしいが、ドクター・ストレンジのそれを空間次元のマルチバースと呼ぶなら、こちらは時間次元のマルチバースと呼べばいいのだろうか。それともマルチバースに時空の区別はないのだろうか。
たとえば、ある人が過去に戻って、前とは違う行為をすると新たな時間軸が生まれるが、過去に戻らなかった時間軸はそのまま進み、別々の時間軸の別々の空間が存在し、それらが無限にあるということのはずである。そして量子世界はその外にあるということなのだろうか。さらにわからなくなった。

とにかく、カーンは無数に存在し、すべてのマルチバースのカーンが集まる「カーン評議会」なるものもある。その中で、マルチバース間の戦争を制すために他のカーンを消去しようとして量子世界に追放されたカーンが、アントマンの出会ったカーンである。このカーンはアントマンに倒されるが、そのことからアントマン、延いてはアベンジャーズがカーン評議会に目をつけられてしまうのだと思う。カーン評議会は特に中心的位置に3人のカーンがいるので、直接的にはこの3人のカーンが新生アベンジャーズの敵になるはずだったのだろう。じつは『アベンジャーズ/カーン・ダイナスティ』という作品が予定されていたが、カーン演じる俳優(ジョナサン・メジャース)が暴行容疑で有罪になり、MCUから降板してしまったので、この作品も予定から消えた。カーンはMCUから消えるのか、別の俳優が演じることになるのか、今のところ不明である。

MCU(5)

  • ごろねこ
  • 2025/02/03 (Mon) 20:24:07
次の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー/VOLUME3』では、主人公スターロードと恋仲だったガモーラが前に義父サノスに殺されていたが、それ以前の時間軸からやってきた異なるガモーラが登場している。マルチバースと関係するのはそれぐらいだろう。じつは、フェーズ4以降では、これが私の最も好きな作品である。ガーディアンズ・メンバーのアライグマのロケットがほぼ主役になっているのだが、動物が主人公になった作品に私は弱い。

そして、『マーベルズ』を挟んで『デッドプール&ウルヴァリン』である。
これはもう、「マルチバース」をパロディにしているとしか言いようがない。「マルチバース」を使えば何でもありとなり、まともなストーリーが作れないとようやく気づいたのだろうか。

私の想像だが、元々「マルチバース・サーガ」はカーンをヴィランにしようと決め、ドラマ『ワンダヴィジョン』や『ロキ』などでその伏線を張り、映画『スパイダーマン/ノー・ウェイ・ホーム』や『ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス』などでその路線を進めていた。だが、じつのところ「マルチバース」はストーリー上の設定というより、他社が製作していたマーベル映画をMCUに吸収するために必要な設定だったと思う。
先に述べたようにMCUとは別に20世紀フォックスは『X‐MEN』『ウルヴァリン』『デッドプール』のシリーズを製作していたが、2019年にディズニーに買収された。今後はMCUにデッドプールやX‐MENも登場するだろうと思われたが、それを実現したのがこの『デッドプール&ウルヴァリン』である。
といっても内容的に矛盾してしまう点もあるので、デッドプールのいた世界はMCUの世界(アース616)ではなく、アース10005であり、前作でタイムトラベルにより恋人の命を救った後、デッドプールはアース616に移動して、アベンジャーズへの就職活動をするという展開になる。とりあえず「マルチバース・サーガ」における最強ヴィランのカーンが今後出なくなる公算が強い状況では、「マルチバース」とは、MCUとは異なる設定で作った『スパイダーマン』などのソニー作品や『デッドプール』などの20世紀フォックス作品を、MCUに吸収するための方便にすぎなかったと思えてくる。

また、この映画には時間変異取締局(TVA)という組織が登場する。これは、ドラマ『ロキ』から登場した組織らしい。このTVAを設立したのは「在り続ける者」という未来人であり、カーンの変異体(どこかの時間軸のカーン)だという。
ただ、この映画の時点でTVAにカーンの形跡はまったくなく、TVAを支配しようと企むミスター・パラドックスというヴィランが登場している。TVAに連行されたデッドプールは、アース10005が、アースのアンカー(重要な存在)であるウルヴァリンの死によって緩やかに消滅へ向かっていると聞かされる。だが、ミスター・パラドックスは緩やかな消滅を待つだけの堪え性がなく、すぐにもアース10005を消し去ろうとしているのだ。そこでデッドプールは、タイムリープできるタイム・パッドを奪い、様々なマルチバースへ行って、死んだウルヴァリンの代わりになりそうな別のウルヴァリンを探して来るのである。だから、ここに登場するウルヴァリンはどこかのアースのウルヴァリンであり、自分が酔いどれていた間にX‐MENの仲間たちを殺されるという失策を犯し、それを悔やんでますます酒浸りになっているウルヴァリンである。
だが、結局、デッドプールもウルヴァリンも、ミスター・パラドックスによって虚無の世界(ヴォイド)に送られてしまう。

虚無の世界というのは、すべてのマルチバースから外れた世界らしく、時間変異取締局が不都合と思ったり危険と感じたりする者たちを元の時間軸から「剪定」して送り込んでいるようだ。幼いときに、そのあまりに強大な能力を恐れられて送り込まれたカサンドラ・ノヴァ(プロフェッサーXの双子の妹)が、現在はその世界に君臨している。そして、この世界に送り込まれていたのは、『X‐MEN』の敵の面々や、『ファンタスティック・フォー』のヒューマン・トーチ、『エレクトラ』のエレクトラ(デアデビルはすでに死んでいる)など20世紀フォックスのマーベル映画に出て来たキャラたちだ。面白いのは製作が中止になった『ガンビット』が予定通りチャニング・テイタムで、またニュー・ライン・シネマの『ブレイド』までもオリジナルのウェズリー・スナイプスで出演している。
そして砂漠のようなその世界に20世紀フォックスの大きなロゴが朽ちて埋もれている。虚無の世界とは、ディズニーに買収されて朽ちてしまった20世紀フォックスを意味する世界だったのだ。

アース616を神聖時間軸として、アース10005などの時間軸を消滅させようと企むミスター・パラドックスは、様々なマーベル映画をMCUに統合しようというディズニーのことだろうか。映画の中でデッドプールは言う、「フォックスに殺されたけど、ディズニーが復活させ、90歳までこき使う」。
また、すべての時間軸を消滅させて虚無の世界だけにしようと謀るカサンドラは、MCUを終わらせようとする「マルチバース」戦略のことだろうか。そのどちらに対しても戦いを挑むのが、デッドプールとウルヴァリンである。二人の前に立ちはだかるのはマルチバースの百人以上のデッドプールの変異体たちである。じつにバカげた戦略だ。デッドプールは言う、「マルチバースはもうやめよう。アイデアが間違っていた。どの映画も失敗作ばかりだ」。

MCUは本当につまらなくなった。だが、私はまだ見続けることになる。

BEYOOOOONDS

  • ごろねこ
  • 2025/02/07 (Fri) 20:07:05
ここ数年、CDをあまり買わなくなった。Spotifyなどのアプリで聴いているという意味ではない。私が新譜情報に疎くなったこともあるし、本やCDやDVD(ブルーレイ)などをもうあまり増やさないようにしようと決めたこともある。また、CDの新譜そのものが減っているような気もする。CDで音楽を聴く時代ではなくなりつつあるのだろう。とはいえ、私はスマホを持っていない。これを言うと誰にも驚かれるのだが、私は今までスマホを持ったことがないし、携帯電話すら持ったことがない。音楽は相変わらずCDプレイヤーで聴いている。

元々、音楽はBGMとして流していることが多かったので、ジャンルを問わず聴いていたのだが、1990年代辺りから、ほとんど女性ヴォーカルしか聴かなくなった。しかも2000年代になると日本のものが中心になった。1600枚以上持っているCDの、9割近くが女性ヴォーカルだと思う。その中には、アイドルというジャンルの女性も含まれているが、レコード時代には歌謡曲やニューミュージックといわれるジャンルを買うことが多かったので、必然的にアイドル曲も買っていた。CD時代になってからは、それらのベスト盤などをそれぞれ買い直したぐらいで、あまりアイドル曲は買っていない。せいぜい4、5人(ユニット)だろうか。

私がいつからレコードからCDへ購入を変更したのか(つまり一番最初に買ったCD盤が誰のものだったか)覚えていないが、アイドルなら「Wink」である。1988年にデビューした相田翔子と鈴木早智子によるデュオ・ユニットで、レコード大賞の大賞も受賞している。私は普通、CDはアルバムしか買わずシングルは買わないのだが、なぜかWinkのCDはシングルもアルバムも全曲持っている。そして何とシングルは8センチ盤なのだ。私が持っている8センチ盤CDはWinkのシングル25枚と相田のシングル3枚だけである。シングルが8センチだった時代に買ったわけである。現在ではシングルも12センチになっているが、8センチ盤は現在もあるのだろうか。ちなみに試してみたら8センチ盤も今のCDプレーヤーで聴くことができた。

その後、一番はまったアイドルは「℃-ute」だった。アイドル冬の時代には、ハロプロのグループをぼんやり聴いていたのだが、あるとき突然、℃-uteに目と耳を奪われた。その頃、あるいはその後、地上・地下を問わずわんさかと女性アイドルグループが溢れて、℃-uteもハロプロ自体も地味な存在になったように思えたが、私は、アイドルはハロプロで充分という気持ちでいたので他はまったく聴いていない。世間の知名度はともかく、℃-uteの評価は低くはなく、「アイドルが憧れるアイドル」と呼ばれるほどだった。℃-uteのCDアルバムは10枚と少ないが、℃-uteのDVDマガジンや出演した演劇、単独ライブや参加したライブなどのDVDやブルーレイはおそらく150枚以上は持っている。

℃-uteが解散した2017年6月の少し前、ハロプロから二つの新グループができることとその中心となる研修生3人が発表された。1年以上経った2018年6月に追加メンバーが、やはり研修生からそれぞれ3人ずつ発表され、10月に名前が「CHICA♯TETSE(チカ・テツ)」と「雨ノ森 川海(あめのもりかわうみ)」と決まった。さらに、12月にオーデションから入った3人のグループ~後にSeasoningS(シーズニングス)と命名される~と合わせ、12人の「BEYOOOOONDS(ビヨーンズ)」が結成され、翌2019年8月にメジャーデビューを果たした。
最初の発表から、若い女性にとっては貴重な2年の月日が過ぎており、何となく同情する気持ちもあって応援していた。幸い、デビュー曲は、レコード大賞で最優秀新人賞やゴールドディスク大賞で賞を受賞したりして、その後の活躍を予想させた。
だが、その直後、世の中がコロナ禍になり、2020年春に予定されたツアーやイベントなどがすべて中止となった。かなり制限された活動が続き、初の単独ツアーが開催されたのは2022年の春になった。
演劇要素やコミカルさを取り入れた楽曲が多かったが、個々の歌唱力が高い上、ハーモニーやコーラスが美しく、ピアノやビートボックスまでメンバーが演奏するという、かなり個性的なグループだった。CD、DVD、ブルーレイは必ず買っていた。私はアイドルに限らず現場に行ったことはないが、BEYOOOOONDSが近所でリリース・イベントを開いたときは、本気で行ってみようかと迷った。結局、行かなかったけど(笑)。

だが、2024年の3月に体調不良で休んでいたリーダーの一岡怜奈が脱退した。しかし、リーダーが抜けてもBEYOOOOONDSにはまだリーダーが2人いる。さらに6月にはエース山﨑夢羽が卒業した。しかし、エースが抜けてもBEYOOOOONDSにはまだエースが10人いた。
そして5月に出した5thの中の『灰toダイヤモンド』という曲は、それまでとは方向性の違う、歌・ダンス共に見せ場のある曲で、彼女たちのポテンシャルが存分に発揮されていた。それまでは1年に1枚しかリリースされなかったCDも、6thは1年経たない今年1月にリリースされた。『Do-Did-Done(ドゥディダン)』と『あゝ君に転生』という、これまた新たな曲調の2曲である。YouTubeにMVやライブ映像が上がっているのでぜひ見てほしい。

私は70数人いるハロプロ・メンバーは全員応援しているが、好みとして推しているメンバーは、(去年の段階で)BEYOOOOONDSの島倉りか、モーニング娘。24の石田亜佑美、つばきファクトリーの八木栞だった。
それが去年の12月に石田が卒業してしまい、今年4月に八木が卒業し、春ツアーのラストをもって島倉が卒業することが発表された。いやあ、これはもう、いい歳してキモいからアイドルなんか見るな、という天の啓示なのか。でも、BEYOOOOONDSは箱推しなので、これからも応援していくし、卒業の3人の今後の活躍も祈りたい。

『ミッドナイト・ロストエピソード』

  • ごろねこ
  • 2025/02/15 (Sat) 21:43:23
手塚治虫が亡くなって36年になる。ということは、リアルタイムで手塚作品を読んでいた人はどんなに若くても40歳以上だろう。逆に言えば、40歳以下の人はリアルタイムで手塚作品を読んだことがない、という衝撃の事実がある。私は子どもの頃から手塚作品に親しんでいたが、それでも初期の手塚作品をリアルタイムでは読めなかった。もっとも、1946年の『マアちゃんの日記帳』や1947年の『新宝島』をリアルタイムで読んだ人は、たとえ読んだのが小学生の頃だったとしても、85歳を過ぎていることになる。そして、驚くことに、今でも手塚作品は続々と刊行されている。復刻本や未収録作や幻の作品や初公開作などが新刊として刊行されているのである。すべてというわけではないが、気になる作品は私も買っている。

立東舎は種々様々な手塚本を出しているが、私が驚いたのは『ミッドナイト/ロストエピソード』だった。
私は昔から、まんがを雑誌では読まないで、コミックスなどにまとめられてから読んでいた。だが、長編まんがなどは単行本化するときにページ数をカットしたり、描き直しをしたりすることがあった。とくに手塚治虫はそれが多く、連載版と単行本版が違うほうがむしろ当たり前だった。また『ブラックジャック』などの読切連載では、すべてのエピソードが単行本に収録されないというのも当たり前だった。内容的に不都合な問題があって収録されない場合は雑誌を探して買うしかないが、そうでない場合は新たに刊行されるときに未収録作品として載せることが多かったので、同じタイトルを嫌がらずに買っていけば徐々に未収録作品も読むことができた。
私は『ミッドナイト』は少年チャンピオン・コミックスで読んでおり、最終第6巻が刊行されたのが連載終了後だったので、とくに疑問もなく、連載の最終話が6巻の最終話だと思っていた。もちろんコミックスにはカットされたエピソードがあるかも知れないとは思っていたが、それはもっと途中のエピソードだろうと思っていた。この認識は、何と30数年間持ち続けていた。

『ミッドナイト/ロストエピソード』には全18話が収録されているが、そのうち初めて単行本に収録される話が11話あった。私が驚いたのは、それらの話ではなく、最終3話だった。最終3話はひと連なりの内容になっていて、すでに文庫本版には収録されていたという。私は文庫本を読んでいなかったので、ミッドナイトの本当の最終話を知らなかったのだ。私と同じような知らない人のために、あえて内容は書かないが、これはかなり意外な展開であり、驚きだった。

といって、この最終話を気に入ったわけではない。SF的でかなり意外な展開となりブラックジャックまで登場するのである。手塚の生前に刊行されたコミックス版では、あまりに奇抜な展開の最終3話は読者の賛否が分かれたので、手塚が収録を見送ったと、濱田高志氏の解題に記されている。もちろん『ミッドナイト』は他にもSF風な話や奇抜な話など、様々な要素が取り入れられた話がある。そんな中、読者が驚くような結末にしたかった手塚の気持ちもわからないではない。しかし私はやはり、『ミッドナイト』という作品は、真夜中に孤独なタクシー運転手が乗せた客の人生を覗いていく、というパターンで統一してほしかった。

なお、『ミッドナイト』終了の前後に連載を開始した『ルードウィヒ・B』『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』の3作はどれも未完で絶筆となっている。

『手塚治虫ディスカバリー・コレクション』

  • ごろねこ
  • 2025/02/20 (Thu) 20:49:07
一昨年の12月に手塚治虫の『大人漫画大全』が国書刊行会から刊行された。函入り2巻本で、総ページ数1000ページ以上という大冊だ。濱田高志氏の解題によると、文藝春秋社「漫画読本」と実業之日本社「漫画サンデー」に掲載された作品が大半だというが、他にも一般週刊誌や月刊誌、中間小説誌や企業PR誌などに発表された作品などがある。いわゆる「大人漫画」は、風刺からシリアス、ナンセンスからユーモア、エログロなど内容は多岐に渡り、形式も長編や短編、4コマや1コマまで様々である。ただ、手塚は自作の「大人漫画」の描き方をある程度確立していて、第1作に当たる『第三帝国の崩壊』(1955年)以来、その描き方をほぼ踏襲している作品を「大人漫画」と見ていいのではないか、と私は思う。それはコミカルにデフォルメされた人物と簡略化された背景であまりベタやトーンを使わない絵であり、フキダシの中の手書き文字である。もちろん例外はあるが、後に青年まんがが一般的になり、児童まんがよりリアルに描き込んだ絵で物語を語る「大人向けのまんが」とは別物である。つまり『人間ども集まれ!』は「大人漫画」だが、『きりひと賛歌』はここでいう「大人漫画」ではないことになる。ただし、本書では、長編大人漫画の『人間ども集まれ!』と『上を下へのジレッタ』はすでに完全復刻版が出ているので除外、『週間探偵登場』『ひょうたん駒子』などの連載中編も載せず、読切か短編の連作シリーズを中心に編んだ作品集だと、濱田氏は述べている。それでも、単行本未収録作品や全集未収録作品も含まれ、手塚大人漫画の集大成になっている。

私は手塚の大人漫画を初出誌で読んだという記憶はあまりないが、全集に入ったり単行本化されたりしたものは読んでいる。『ひょうたん駒子』だけは早い時期(1960年)に単行本化されていたので、いつだったか覚えていないが、貸本屋で借りて読んだ。私が読んだ最初の手塚の大人漫画かも知れない。
また、小学生の頃、大学生の知人が「サンデー毎日」を購入していて、そこに手塚作品(『よろめき動物記』)が連載されているのを知り、毎週それだけ読ませてもらっていた。そのとき、新年号に『ひょうたんなまず危機一発』という読切作品が掲載されたことがあった。大人漫画のタッチではなく、アトムやビッグXやガロンなどが登場する、いわゆる私が読んでいた手塚作品の番外編という感じだったので、お得に感じたのを覚えている。ただし、「サンデー毎日」に掲載されたものの、この作品は「大人漫画」には含まれないらしく、本書には収録されていない。サンコミでも全集でも『鉄腕アトム』の別巻に収録されている。

さて、「大人漫画」が出れば、「幼年まんが」も出る、ということで、最も新しい手塚本は幼年まんがを集めた『手塚治虫ディスカバリー・コレクション』(玄光社)である。『大人漫画大全』とは違い、幼年まんがの集大成という本ではない。学年誌(幼年誌)のために描かれた作品で、今まで単行本には未収録だった作品を中心に編んだそうである。単行本が刊行されていても、収録されていないエピソードや、初出時はカラーで掲載されたのに単行本ではモノクロになっている作品、さらには未発表作品や最近発見された作品を集めたということである。

たとえば、『ぼうけんルビ』は、次の3種類ある。
①『冒険ルビ』「小学一年生」(69年10月号)~「小学二年生」(70年7月号)
②『冒険ルビ』「小学二年生」(69年10月号)~「小学三年生」(70年6月号)
③『ぼうけんルビ』「幼稚園」(70年2月号~4月号)~「小学一年生」(70年4月号~7月号)
このうち①は全集『ふしぎなメルモ』に併録。1984年の刊行時には作者はまだ存命で、あとがきに、小学館がテレビアニメ用に依頼してきたもので幼年誌三誌に同時連載するという派手なPRだったが、虫プロと小学館とでトラブルが起き、企画が中止となって終わった不本意な作品、と書いている。また、この三つの連載のうち、一番おもしろくない①の原稿だけが残っており、他の②③の物語のほうがはるかにおもしろく、作者自身も好きなのだが、やむをえず①だけを全集に載せた、と述べている。ただ、作者没後の1994年には②を収録した『冒険ルビ』が全集から刊行された。ということは②はトレス原稿を使用したのだろう。
そして、③が今回本書に収録されたわけである。濱田氏によると、③は一部残っていた原稿と印刷物を使用した、と述べているが、全集収録の①②はモノクロなので、色鮮やかなだけでも楽しい。手塚は①が一番おもしろくないと言ったが、確かに①よりは②のほうがおもしろいと私も思う。でも、これは好みによるだろう。手塚は、アニメの企画中止とともに連載が終わったので、物語を夢オチにしてしまったことを不本意だったと書いているが、③の夢オチはかなり意外なものだった。こんな夢オチは初めて見たと思う。

ところで、手塚治虫没後、氏の作品の復刻版や完全版などが刊行されるときは、手塚プロの資料室長の森晴路氏が編集や解説を担当していた。昔は「まんがのむし」という機関誌を刊行していた「全日本まんがファン連合」だったか、にいた人で、そのまま手塚プロに入ったのだなと思った記憶があるが、記憶違いだったら申し訳ない。その森氏が2016年に亡くなって手塚本もあまり刊行されなくなるかと心配したが、むしろ前以上に貴重な作品などが続々と刊行されるようになり、その企画・編集・解説は、濱田高志という人が担当している。この人がどういう人なのか寡聞にして存じ上げないが、感謝しかない。

『赤んぼ少女』

  • ごろねこ
  • 2025/03/06 (Thu) 22:01:26
3月のTV番組表を見ていたら、CSの衛星劇場HDで「楳図かずお原作映画傑作選」が目に入った。「追悼特集」とあったので、そうか、楳図かずおは亡くなってしまったんだ、と改めて思った。昨年はサイトを休んでいたので、亡くなったときには何も書けなかったが、楳図かずおは私が好きなまんが家の「ベスト100」に入る。いやいや100人はないでしょ、それじゃ、たいして好きじゃないんじゃないか、と思うかも知れないが、手塚治虫も横山光輝も石ノ森章太郎も、星野之宣も諸星大二郎も大友克洋も、山上たつひこも谷口ジローも坂口尚も、さいとう・たかをも白土三平も望月三起也も、関谷ひさしもあすなひろしもつげ義春も、藤子AもFもちばてつやも、萩尾望都も矢代まさこも樹村みのりも……と、すぐに100人挙げられる好きなまんが家の中の一人なのだ。衛星劇場HDは有料チャンネルなので契約していなくて見ることはできないが、みなDVDを持っている作品だった。楳図原作映画は、前に『神の左手悪魔の右手』について書いたが、スプラッタ―要素が強いものの、あれが映像作品では一番好きかも知れない。

私は楳図作品は初期の頃はおそらく読んでいない。貸本も少女まんがが多かったこともあり、復刻本が出るまでは読んだことがない作品ばかりだった。貸本のアンソロジー誌で何か短編を読んだかも知れないが、記憶にはない。貸本で読んだのは『ガモラ』だけで、第4巻の刊行をずっと待っていたのを覚えている。その頃、『ガモラ』と読んだ前後は覚えていないが、評判になった『ママがこわい』を読むことになる。続く『まだらの少女』から『紅グモ』『へび少女』など「少女フレンド」連載作品は、ずっと女友だちに借りて読んでいた。一方、少女まんがよりは1、2年遅れた印象があるのだが、実際には『ママがこわい』と同じ1965年に「少年マガジン」で『半魚人』が始まり、『ひびわれ人間』から『ウルトラマン』へと続く。この講談社雑誌での少女まんがと少年まんがの二輪連載はしばらく続き、リアルタイムで読んでいた。ただし、『ウルトラマン』が始まったときは、楳図かずおの絵ではイメージが合わないと思った。たとえば『ウルトラQ』のような作品ならまだしも、ウルトラマンというヒーローが登場するまんがは、楳図ではそぐわない感じがした。後の桑田次郎の『ウルトラセブン』のようなストーリーと絵の一致感がないように思えたのだ。

さて、このときの楳図作品は、蛇女も紅グモも半魚人も、どれも印象的だったが、私が最も驚いたのは『赤んぼ少女』だった。蛇や蜘蛛が怖いのはわかるが、赤んぼうを恐怖の対象として描くなんて、しかも少女まんがで。まずは、その発想に驚いた。
少女・葉子は生まれたときに別れ別れになっていた実の両親の館へ引き取られる。館には、両親の他にタマミという赤ん坊がいたが、じつはタマミは葉子の姉で、体が成長しない病だったのだ。美しく健康な葉子にタマミは嫉妬し、葉子に嫌がらせをし、それは次第にエスカレートしていく。
当然のことながら、読者は葉子の立場になってストーリーを追い、醜く恐ろしいタマミに襲われる恐怖を味わう。だが、この作品では、父親に殺されそうになりながらも必死に生きようとするタマミや、化粧をしようとして自分の醜さに涙するタマミへも読者は寄り添わざるを得なくなっていく。そうした展開と、しっかりと描かれた人間としてのタマミに驚いたのだった。

物語の終盤、タマミが葉子に言う、「おまえはわたしにいじめられてばかりいたと思っているだろうが、ほんとうはおまえがわたしをいじめていたのよ」。じつはタマミと葉子は生まれたときに病院で取り違えられた、赤の他人だった。葉子は、タマミにとって、自分のすべてを、可愛がってくれる母親さえも奪う存在だったのだ。恐ろしい存在であったはずのタマミが、じつは哀れでか弱い存在であったことを、読者は知る。葉子にかけようとした濃硫酸を誤って浴びてしまったタマミは、虫の息で母親に別れを告げ、自分は悪い子だったと謝る。「あなたは私にとってのただ一人のおかあさん……、私がいなくなっても、葉子さんが、私の代わりに……」。そして、自分が死んだら井戸に埋めてくれ、と言う。そこはタマミがみじめな気持ちになったときに、いつも泣きに行く秘密の場所だったのだ。

ところで、この作品は連載時には『赤んぼ少女』のタイトルで、単行本化もされたが、新書判の秋田書店サンデー・コミックスに収録されたときに『のろいの館』と改題された。『赤んぼ少女』ではホラーまんがらしくないと思ったのか、あるいはホラーまんがに「赤んぼ」を使いたくないと思ったのだろうか。さらに小学館の「恐怖劇場」や角川のホラー文庫では『赤んぼう少女』に改題されている。これは「赤んぼう」が正しい言い方だと思ったのだろうか。確かに「赤ん坊」という字が元なのだが「赤んぼ」の言い方が間違っているわけではない。「忘れんぼう・利かんぼう・けちんぼう」など、みな「ぼう」でも「ぼ」でもどちらも正しい。それが理由かどうかは知らないが、オリジナルを尊重しただけかも知れないが、小学館の「楳図パーフェクション!」に収録されたとき(2008年)に『赤んぼ少女』に戻った。そして、その前年の2007年に公開された映画では、すでに『赤んぼ少女』というタイトルが使われていた。これは、映画、グッジョブである。『赤んぼう少女』より『赤んぼ少女』のほうが語感がいいと私は思っている。

だが、内容的には、映画は原作の良さを活かしてはいない。何よりもタマミがただのモンスターになってしまっていることが残念だ。タマミはなかなか姿を現さず、不意に襲って来ては、葉子のいた施設の職員も父親も婆やも殺してしまう。ホラーの定石である。もちろんホラー映画を望まれ、ホラー映画を作ったのだろうが、いっそ人間ドラマとして作ったらどうなっただろうか。
原作はタマミが主人公なのだが、映画は葉子を主人公にしている。その違いは大きい。

『蛇娘と白髪魔』

  • ごろねこ
  • 2025/03/09 (Sun) 21:01:50
楳図かずお原作の最初の映画化作品は1968年の『蛇娘と白髪魔』である。だが、公開直前までこのタイトルの楳図作品は存在していなかった。じつはこの映画は、『赤んぼ少女』『うろこの顔』『紅グモ』の3作品をミックスさせて作られている。といってもストーリーは『赤んぼ少女』が骨子となっている。

主人公の名は小百合。小百合は生まれたときに別れ別れになっていた実の両親の館に引き取られる。初めは姿を見せないでいたが、館にはタマミという姉がいて、なぜか小百合を憎み、嫌がらせをする。さらに不気味な白髪魔が現れ、小百合を襲ってくる。
「赤んぼ少女」というキャラクターを映像化するのが難しかったのか、楳図ホラーの人気の「蛇女」と「紅グモ」を取り入れたかったのか、タマミは赤んぼではなく、醜くアザにある顔をビニール製の仮面で隠した少女で、蛇を愛玩している。蛇神の呪いで蛇へと変身する『うろこの顔』の要素が取り入れられているが、映画ではタマミが蛇女に変身するのは小百合の夢の中なので、実際に蛇女が登場するわけではない。
また、生まれたときに取り違えられたわりには、タマミは小百合よりかなり年上に見えるが、実際に小百合役の松井八知栄は当時10歳、タマミ役の高橋あゆみは16歳だったという。童顔の松井と大人びた高橋は実年齢以上の差に見える。俳優について気になったのは、小百合のいた孤児院で働き、最後まで小百合を助ける林という青年がいるのだが、演じるのは数多くの映画やドラマに出演している「平泉征(後に平泉成)」だった。これは顔を見てもまったくわからなかった。ちなみに楳図本人もタクシー運転手役で出演しており、楳図は自作が原作の映画・ドラマに限らず、多くの作品に出演している。
『うろこの顔』では蛇神に仕えた巫女が婆やとして主人公の家に入り込み、復讐のために呪いをかける犯人だったが、映画でも真犯人は婆やになっている。また『紅グモ』は、人の体に入り込み、内から人を食い尽くしてしまうという蜘蛛の話だが、悪い継母のために口に紅グモを入れられて死んだ少女が、墓から蘇ると白髪の老婆のような姿になっていたというエピソードがある。少女は継母に復讐しようと婆やとして家に入り込むのだが、継母のほうが一枚上手で、少女の妹も殺そうと、紅グモの化身に扮して妹の前に現れたりする。この老婆になった姉や、その姿に化ける継母が映画の「白髪魔」として使われている。

ただ、映画では『赤んぼ少女』の成長しない赤んぼ、『うろこの顔』の蛇女、『紅グモ』の白髪魔といった超常現象的な怪奇は、すべて除かれている。恐怖の赤んぼは顔にアザのある少女に、蛇女は悪夢の中に現れ、白髪魔は犯人の扮装なのだ。小百合に対するタマミの嫉妬はあるが、その嫉妬をそそのかし、小百合や母親を亡き者にして財産を奪おうと企む犯人の動機も、嫉妬や復讐や呪いといった原作とは違ってかなり現実的だ。そのあたりが好き嫌いが分かれるところかも知れない。だが、わりと楳図作品的な雰囲気は出ている、と私は思う。

そして、映画公開(12月14日)の直前に、楳図自身がこの映画をまんが化している。「ティーンルック」で11月に3回連載したが、もし自分で気にいらない映画なら、たとえ映画の宣伝になるとしてもまんが化などしないだろう。

『まだらの少女』

  • ごろねこ
  • 2025/03/17 (Mon) 20:21:10
楳図かずおが恐怖まんがの作家と認識されたときの代表キャラは、何といっても「蛇女」だったと思う。そういえば、楳図に限らず「蛇男」というのは聞かない。やはり「蛇=女」のイメージが強いのだろうか。
『口が耳までさける時』(1961年)、『山びこ姉妹シリーズ・へびおばさん』(64年)、『ママがこわい』(65年)、『まだらの少女』(65年)、『山びこ姉妹シリーズ・へび少女』(66年)、『うろこの顔』(68年)など、60年代に楳図は「蛇女」が出てくる作品を定期的に描いていた。だが、楳図原作の映像化作品を見ると、「蛇女」は少ない。
『蛇娘と白髪魔』の蛇娘は、小百合の夢の中に登場するだけでタマミが本当の蛇娘というわけではない。まんが版では、夢というよりは小百合の恐怖心からタマミが蛇娘に見えてしまったという感じに描かれている。そうなると、映像化された「蛇女」は、デビュー50周年に作られた『楳図かずお恐怖劇場』というオムニバス映画の1編『まだらの少女』だけになる。

この映画は、6作の楳図作品を1作60分程度に映画化したもので、2005年に2本ずつ劇場公開された。『蟲たちの家』『絶食』が6月18日、『まだらの少女』『ねがい』が6月25日、『プレゼント』『DEATH MAKE』が7月2日の公開だった。DVDも3セット出ている。1セットが2枚組なので、1枚に1作収録なのかと誤解するが、1枚に2作ずつ収録してあり、もう1枚は特典ディスクである。

原作では『まだらの少女』は『ママがこわい』の続編である。主人公は弓子。入院していた母親が、同じ病院に入院していた蛇女と入れ替わって、自宅に戻って来るというのが『ママがこわい』で、最後には正体がばれて蛇女はまた病院に送られ、本当の母親は無事だったという話。
『まだらの少女』では、蛇女が看護師を殺して病院から逃げ出し、憎む弓子の家にやって来る。折しも弓子は叔母のいる美土路村へと静養に行くところで、蛇女は弓子のトランクに隠れて美土路村まで送られる。弓子が美土路村へ着くと村人たちは弓子を避け、叔母夫婦も弓子に帰京を促す。いとこの京子の話では、村の占い師が東京から蛇女がやって来ると予言し、村人たちは弓子を蛇女と思って怖れているのだ。村には蛇屋敷と呼ばれる家があり、その家こそトランクに隠れてやって来た蛇女の生まれた家だった。弓子たちは蛇女に襲われるが逃げ出し、村人たちによって蛇屋敷は燃やされ、蛇女は死ぬ。だが、その後、京子の様子がおかしくなっていく。まむしに咬まれたときの輸血で蛇女の血が京子の体に入っていたのだ。

映画版『まだらの少女』は、学校で陰惨な事件があり、弓子は気晴らしとして連休に美土路村のいとこの京子の家に行くが、村では蛇の呪いが信じられており、村人たちは弓子がその呪いをもたらすのではないかと怖れていた。弓子が蛇の呪いとは関係ないことを証明してもらおうと占い師の家を訪ねると、そこに蛇女が現れ、弓子は咬まれてしまう。

原作では蛇女は「自分を蛇だと思い込んだ多鱗症の女」と説明があるが、「血で感染する蛇女になる病気」があると考えればよい。
それに対して映画では、蛇は「憎しみ」の象徴である。学校の事件……教師を撲殺した生徒の憎しみに、自分がネット上にぶつける憎しみが重なり、弓子は恐怖を覚えていた。そんなとき突然現れた蛇女に咬まれた弓子は、自分が蛇女になったのではないかという恐怖に苛まれる。蛇女は弓子よりさらに強い憎しみを抱いていた人物の化身なのだが、蛇女というより、弓子を呑み込もうとする巨大な蛇の頭が、何だか滑稽ではある。憎しみの具現化であるならば、蛇女は心理的な恐怖を与えるイメージだけでいいと思うし、あるいは原作同様、蛇女という感染症のドラマにしたほうがよかったのではないかと思う。

とはいえ、この映画の監督は井口昇。私は井口作品の独特な魅力には一時期かなりはまっていて、映画館で見たのは『ヌイグルマーZ』だけだったと思うが、DVDは15作以上持っている。楳図原作では『猫目小僧』も井口監督である。いつか井口作品についても紹介したい。

ごろねこの本棚【35】(1)

  • ごろねこ
  • 2023/11/27 (Mon) 19:46:59
『妖怪ハンター』(諸星大二郎)
集英社・1978年7月刊・新書判

諸星作品は「CОM」の月例新人入選作『ジュン子・恐喝』で初めて読んだが、リアルな人間ドラマで、絵はまんがや劇画というより写実的に描こうとする挿絵のようなタッチで、あまり読む気になれなかった。その前に第五席に入って表紙と本文1ページだけ掲載された『硬貨を入れてからボタンを押して下さい』は破滅した世界に生き残った男を描くSF設定の作品で、そちらのほうが面白そうだったが、タイトルから何となく内容が推測できてしまった。ずっと後に全ページが発表されたが、意外性はなかった。その後、「漫画アクション」に『不安の立像』などを発表したり、「ビッグコミック」で『女は世界を滅ぼす』が新人賞に佳作入選したりしていたことは、当時は知らず、諸星作品に再会したのは「週刊少年ジャンプ」で第7回手塚賞に入選した『生物都市』だった。これは絵もストーリーも見違えるほどよくなっており、さすがに手塚賞受賞作品だった。J.G.バラードの『結晶世界』をヒントにしたように私には思えたが、たとえそうだとしてもすばらしい作品であることに違いはない。ちなみに『生物都市』は、この『妖怪ハンター』に併録されている。
そして、諸星にとって初めての連載作品になったのが、「週刊少年ジャンプ」における『妖怪ハンター』だった。だが、第1話『黒い探求者』(1974年37号)、第2話『赤い唇』(同38号)、第3話『死人帰り』(同39~41号)と5週連載全3話で、このときはあっけなく終わってしまった。その後、1976年に「少年ジャンプ増刊8月号」に『生命の木』を発表し、さらに描き下ろしの『闇の中の仮面の顔』を追加して1978年に『妖怪ハンター』として刊行したのだった。このシリーズは、その後も続いて刊行されている。
主人公は「稗田礼二郎」。本書収録バージョンでは、「もとK大考古学教授。新進考古学者と注目をあびたが古墳についての新説で日本考古学会追放……」と大学教授を馘になり学会も追放されたと紹介されている。だが、後のバージョンでは「異様な事例や奇怪な題材にばかり手を出すので異端者扱いされて」「古墳についての新説で物議をかもした新進の考古学者」と、異端者ながら学会は追放されてはいない。この事件後にK大教授は辞すが、他大学の客員教授などを続けている。長髪・黒服姿で、全国の遺跡や伝承に関わる怪事件を追い、モノ(魔物・妖怪・物怪・精霊など)を研究している。作者が、史料を誦習し伝承したという『古事記』の稗田阿礼から名をとったように、礼二郎の役割はモノを探り、記録することである。ハントすることではない。「妖怪ハンター」というタイトルは当時の担当編集者が名付けたもので、諸星はこのタイトルが好きではなかったという。そこで「稗田礼二郎のフィ―ルド・ノートより」とか「稗田のモノ語り」とか別のシリーズ名をつけてもいるが、結局は「妖怪ハンター」の名が使われている。

ごろねこの本棚【35】(2)

  • ごろねこ
  • 2023/11/29 (Wed) 19:52:26
『ヒルコ/妖怪ハンター』(監督・塚本晋也、出演・沢田研二)
松竹・1991年5月公開・2021年Blu-ray発売

『妖怪ハンター』の第1話「黒い探求者」に第2話「赤い唇」の要素を加えて映画化した作品。昔、VHS時代にレンタルで見たことがあったが、夜や地下の場面が暗くて、かなり見づらかったという印象があった。このblu-rayで見ると、暗いシーンでもはっきりと見えるし、昼のシーンの田舎の風景も美しい。VHSで見たときより、倍は面白く感じた。
原作の「黒い探求者」は、比留子古墳を研究していた八部という郷土史家が石室で首なし死体で発見され、息子のまさおから頼まれた稗田がその謎を調査するという話。「赤い唇」は、地味で真面目な優等生の月島令子は中学で不良グループのいじめの対象だったが、ある日を境に派手な赤い唇の少女へと変貌し、彼女の周りでは次々と人が死んでいくという話。彼女は朱唇観音に封じられていた魔物に取り憑かれ、その唇から発せられた言葉には誰もが従わずにはいられなかったのだ。
映画は、八部は稗田の亡き妻の兄で中学教師をしている。息子のまさおはそこの中学生で、同級生の月島に密かに想いを寄せている。というように登場人物間に関係がある。原作の稗田は冷静で知的なキャラクターだが、映画では生真面目だがドジな性格で、そこが一番の違いである。また、妻を自分の過失で亡くしたと思って苦しんでいることが明かされるが、その苦しみを乗り越えることが映画のテーマに関わっているにせよ、原作の稗田から妻がいる雰囲気はまるで感じられないので、妻のエピソードは余計だと私には思えた。
異端の考古学者・稗田礼二郎は、亡き妻の兄で中学校教師の八部から、悪霊を鎮めるために作られたと思われる古墳を発見したと聞く。それは稗田の学説を立証する古墳であった。だが、八部は古墳を調査中に教え子の月島令子と共に行方不明となった。八部家を訪ねた稗田は、八部家が代々村を守る家柄であり、家に伝わる「冠」を八部が持ち出していたことを知る。八部の息子のまさおは二人の友人と共に行方不明の父と令子を探しに、夏休み中の学校に忍び込む。古墳は学校内のどこかにあるのだ。だが、令子は化物となっており、友人たちは殺されてしまう。まさおは稗田と合流し、稗田の妖怪退治の武器を手に、校内を探索する。
映画の中学校のシーンは、原作にはまったくないのだが、夏休みの夜、学校で化物と戦うというのは、数年後にブームとなる「学校の怪談」を先取りした感もあり、面白い。
稗田とまさおは八部のノートから、古墳の石室の奥へ続く入口の呪文のありかを知る。奥には無数の化物(ヒルコ)がいる虚無の空間が広がっていた。そして八部が開けてしまった入口からヒルコがこちらの世界に出ようとしていると考えた稗田は、八部が持ち出した「冠」を取り戻すため入口を開ける呪文を唱え、まさおと共にヒルコのいる空間へと入る。無数のヒルコが二人に襲いかかるが、ヒルコとなったはずの八部や令子、友人たちが盾になってくれた隙に呪文を唱え、手に入れた「冠」の力で撃退して、入口を封じるのだった。
この映画で最も注目されるのは、稗田礼二郎役の沢田研二だろう。塚本監督は、稗田役は岸田森以外にはあり得ないといわれていたが、すでに故人なので、誰からも文句の出ないキャスティングにした、と述べている。沢田はそれまでにコントやコメディも多くこなしていたが、映画では『太陽を盗んだ男』や『魔界転生』のイメージが強い。原作の稗田の雰囲気ならともかく、ドジな稗田を演じるのは意外だった。だが、沢田が出演したことで、この映画の魅力は確実に増していると思う。映画公開後に描かれた「妖怪ハンター」シリーズの『蟻地獄』で、稗田の講義を受けた女子大生たちが、「ねえ、稗田先生って沢田研二にちょっと似てない?」「え……どこが…?」と会話を交わしている。確かに「どこが?」なのだが。

ごろねこの本棚【35】(3)

  • ごろねこ
  • 2023/11/30 (Thu) 19:47:02
『海竜祭の夜-妖怪ハンター-』(諸星大二郎)
集英社・1988年7月刊・A5判
『稗田のモノ語り・魔障ケ岳・妖怪ハンター』(諸星大二郎)
講談社・2005年11月刊・A5判

『ヒルコ/妖怪ハンター』のエンドロールに「原作・海竜祭の夜」とある。これは、新書判の『妖怪ハンター』を刊行後に「週刊ヤングジャンプ」などに描いたシリーズ新作4編と合わせて、A5判で再刊行し、新作の1編「海竜祭の夜」を表題にしたためである。映画公開時に、原作の「黒い探求者」と「赤い唇」を読める新刊が『海竜祭の夜』だったのだ。ただし新書判に収録してあった「死人帰り」は、不満足なものなので収録しなかった、と諸星があとがきに記している。架空のものであれ、何らかの伝承や古書に寄せた展開をとれなかったことが不満だったのだろうか(「死人帰り」は文庫版の『妖怪ハンター』で復活している)。
新書判の『妖怪ハンター』は第1話「黒い探求者」の前に2ページ、第5話(発表順とは異なる)「死人帰り」の後に1ページ、作者と思われる人物が登場する枠組みのページを描き加え、『妖怪ハンター』という5話からなる物語を完結させていた。だが、その後もこのシリーズを描き続けたため、枠組みのページを削除して、「海竜祭の夜」を第1話とする再構成の「妖怪ハンター」シリーズが始まったわけである。この時点ですでに次作の「川上より来りて」は発表済みだったが、「出版社側の理由で(『海竜祭の夜』への収録を)断念せざるを得なかった」とあるので、その後もこのシリーズを描き続けることは織り込み済みだったのだろう。実際に第5話として配置された「生命の木」以降の数作は、次の『天孫降臨』収録作まで巻をまたいで「生命の木」に関する謎を追う連作となっている。「生命の木」(1976年)から「天孫降臨(91年)まで15年経っていることを思えば、このテーマへの作者の熱意が感じられる。2001年に刊行された「諸星大二郎自選短編集Ⅰ」の巻頭に「生命の木」を選んでいることからも、この作品を初期「妖怪ハンター」の代表作といっていいだろう。
2005年に再度「妖怪ハンター」が映画化されたとき、原作は『魔障ケ岳』の刊行時で、映画の宣伝の帯がついている。当時私は、こんな古い作品を映画化しないでもっと新しい作品を映画化すればいいのに、などと思ったが(じつは今でも思っているが)、「生命の木」を映画化するだけの、関係者の思い入れがあったのだろう。

ごろねこの本棚【35】(4)

  • ごろねこ
  • 2023/12/04 (Mon) 19:40:24
『奇談』(監督・小松隆志、出演・阿部寛)
ジェネオンエンタテインメント・2005年11月公開・2006年DVD発売

2005年に「生命の木」を映画化した『奇談』が公開された。稗田礼二郎役は阿部寛。『ヒルコ/妖怪ハンター』の沢田研二と比べると原作のキャラに近く知的でクールだが、長髪ではない。
原作は次の通り。東北の隠れキリシタンの里である渡戸村に伝わる聖書異伝に興味を持った男が、村を訪れる。教会へ行くと、村はずれの「はなれ」と呼ばれる集落から善次という男の死体が運び込まれていた。善次は磔になって殺されたらしい。村の住人の信仰は明治期にはカトリックに戻ったが、「はなれ」では独自の信仰へと変貌していた。男と神父が「はなれ」へ行くと住人たちは消えて、重太という老人が一人いるだけで、皆で善次を殺したと言う。驚く男たちの前に稗田が現れ、「はなれ」の異伝を説く。神は「あだん(アダム)」と「じゅすへる(ルシファー)」という二人の人間を作り、アダムは「知恵の木」の実を食べて楽園を追われ、じゅすへるは「生命の木」の実を食べて不死になり神に呪われて「いんへるの」に引き込まれたという。「はなれ」の住人たちはじゅすへるの子孫で、皆痴呆ではあるが死ぬことはなく代々どこかへ消えて行った。そのとき、善次の死体が教会から消えたと報せが来て、重太が逃げ出す。稗田たちが重太を追いかけて洞窟に入ると、「はなれ」の礼拝所らしき場所で、「三じゅわん(三人の聖ヨハネ)」が立っていた。彼らの足元には巨大な空間「いんへるの(地獄)」が広がり、その底には呪われた「じゅすへる」の無数の子孫たちが苦しみにうごめいていた。重太(ユダ)は三人に救いを請う。そのとき三日経って復活した「善次(ぜずす=イエス)」が現れ、「みんな、ぱらいそ(天国)さ、いくだ!」と叫ぶと、地下でうごめいていた人々は皆光となって天空に吸い込まれていった。
原作は、村に来る男(氏名不詳)と稗田の役割がカブってしまうところがある。31ページの短編なので仕方がないが、説明が多く展開が速い。映画では、村に来る男を女に変え、七歳の時村で神隠しに遭ったという設定になっている。
映画の舞台は1972年。民俗学専攻の大学院生・佐伯里美は渡戸村を訪れる。小学一年生のとき村の親戚に預けられていた里美は、友だちになった少年・新吉と共に神隠しに遭い、そのときの記憶を失っていた。断片的な夢に誘われて渡戸村へやって来たのだ。そこで村に伝わる聖書異伝を調査に来た考古学者・稗田と出会う。翌日、「はなれ」の住人・善次が磔の刑にあったような死体で発見される。里美と稗田は長老や寺の住職たちから話を聞き、昔から村では子供たちが神隠しに遭っていたことを知る。そして、16年前に里美と共に神隠しに遭った新吉が、当時の少年のままの姿で見つかる。
この神隠しにまつわる物語が追加され、謎めいた雰囲気とホラー的な演出が強くなっている。ただ、なぜ神隠しが起こるのか、なぜ女だけが帰還するのか、なぜ神隠し中は年を取らないのか、なぜ最後に皆帰って来たのか、一応の説明はあるが、はっきりとはわからない。原作にはない設定なので、やはり無理があるのかと思えてしまう。ラストのイエスの復活から昇天に至るシーンは、よくぞ原作に寄せて映像化したとは思った。

ごろねこの本棚【35】(5)

  • ごろねこ
  • 2023/12/10 (Sun) 19:49:48
『鮫肌男と桃尻女』(望月峯太郎)
講談社・1994年6月9日刊・B6判

望月峯太朗作品は、私の印象では最初の長編『バタアシ金魚』から『ドラゴンヘッド』まで、より高みを目指して荒々しく疾走している感があった。その疾走は『ドラゴンヘッド』でゴールを走り抜けた気がして、一区切りついた。その後、作者は新たなクルージングに出かけて、「望月ミネタロウ」と名を変えたりしながら作品を発表し、どこか遠くを目指しているのか、迷っているのかはわからないが、山本周五郎の小説を借りて『ちいさこべえ』という佳作も生み出している。『鮫肌男と桃尻女』は『ドラゴンヘッド』の直前に描いたバイオレンス作品で、連載当初は『大車輪』というタイトルだったらしい。
両親の死後、世話になった叔父の山のホテルで働く桃尻トシコは用事で郵便局へ行く途中、組織の金を持ち逃げして追われている鮫肌黒男という男を偶然にも助け、車に乗せる。それは運命的な出会いとなり、二人は互いに恋に落ち、体の関係を持つ。トシコは偏執的な叔父の許から離れ、組織の連中から逃げる鮫肌について行く決心をする。鮫肌を追うのは、幹部で元々鮫肌とは反りが合わない田抜、女幹部で鮫肌と愛憎関係にある蜜子、鮫肌を兄貴と慕っていた河豚田の三人と組員が十数人ほど。彼らの追撃をかわして、一度は東京まで逃げるが、山荘に置いてきた車を逃走資金に換えようと、二人は山へ戻る。だが、山では嫉妬に狂った叔父にトシコは襲われ、鮫肌も田抜たちに見つかる。死闘の末、辛うじて生き残った鮫肌の頭に銃を突きつける田抜、その田抜の頭に銃を向けるトシコ、だが田抜はもう片手でトシコの喉元にナイフを突きつける。動けなくなった三人のシーンに続き、山荘のガレージから車が出て行くシーンで終わる。
この車には生き延びた鮫肌とトシコが乗っているのか、それとも誰か別人が乗っているのか、そこを読者の想像に委ねている。おそらくひたすらバイオレンスな男女の逃避行を描くという作品なので、結末はどうでもいいのだろう。だが、こうしたラストにしたことで余韻は深くなった。
私が一番気になったのは、鮫肌の飼っているドーベルマンのジョン・ウーという犬のこと。鮫肌たちが山に戻って来たとき、車の中にいたジョン・ウーはトシコの叔父に猟銃で撃たれてしまう。その後、叔父はトシコの逆襲に遭い、傷を負って山中をさまようが、現れた血だらけのジョン・ウーに襲われる。叔父もジョン・ウーも死んだということなのだろうが、はっきり描かれていないのでもどかしい。ジョン・ウーは生きていて、ラスト・シーンのガレージから出て行く車の窓にでも姿が見えれば嬉しいのだが。でもそうすると鮫肌たちが生き延びたことがはっきりしてしまうからだめか。

ごろねこの本棚【35】(6)

  • ごろねこ
  • 2023/12/14 (Thu) 20:01:46
『鮫肌男と桃尻女』(監督・石井克人、出演・浅野忠信)
東北新社・1999年2月公開・2000年DVD発売

映画は、シンプルな原作に様々な脚色がなされているが、とくに登場人物たちが原作以上に奇人変人だらけになっている。また、石井克人監督はクエンティン・タランティーノ監督のファンらしく、組員たちが本編とは無関係のおしゃべりをしているところなど、いかにもタランティーノっぽい演出が窺われる。
叔父のホテルに勤めている桃尻トシコは、郵便局で強盗事件に遭遇する。その二年後から物語は始まる。
偏執狂的にトシコを束縛する叔父から逃げようと、トシコはホテルを車で脱出する。その途中の山道で、鮫肌を追っていた組織の車に体当たりして偶然に鮫肌を助ける。鮫肌は組織の金一億円を横領して逃げていたのだが、トシコも巻き込まれて一緒に逃げるはめになる。鮫肌役は浅野忠信、トシコ役は小日向しえ。
二人を追う組織の田抜役は岸辺一徳。原作よりはクールだが、ホーロー看板を集める趣味を持つ。河豚田(ふぐた)という男は出ないが、「ふくだ」という凶暴な男に鶴見辰吾。またその姉らしき女が「ふくだみつこ」といい真行寺君枝が演じているが、これが原作の「蜜子」に相当する。原作にはいないが鮫肌の先輩の沢田役に寺島進。他にも、組員は津田寛治、堀部圭亮、田中要次など、知られた役者が多い。また、トシコの変態的な叔父役は島田洋八。トシコが駆け落ちしたと誤解した叔父から相手の男を始末するように依頼された殺し屋・山田に我修院達也(旧名・若人あきら)。山田は原作にはないキャラだが、奇人変人だらけの登場人物の中でも際立った奇人変人ぶりであり、最も印象に残る人物になっている。
逃亡するうちに鮫肌とトシコは惹かれ合い、鮫肌は二人で海外へ逃げようと考え、知り合いの男から偽造パスポートを入手する。だが、男は沢田と繋がっており、沢田がトシコを連れ去る。だが、沢田はなぜか途中でトシコを逃がし、代わってトシコを捕まえた山田が叔父の許へと連れて行く。叔父のホテルには組織の連中が滞在しており、トシコが組織に捕まったと思った鮫肌が現れ、捕まってしまう。組員らに痛めつけられる鮫肌を見て、戦ったとき惚れてしまった山田は、鮫肌を救出しようとする。激しい銃撃戦の中、辛うじて生き残った鮫肌、そして田抜とトシコが原作と同じように森の中で三すくみに状態になる。
原作はその後どうなったか曖昧のままラストシーンに続くが、映画ではそこに現れた瀕死の叔父がトシコの男だと思って田抜を射殺する。さらに、二年前の郵便局強盗は沢田が犯人、鮫肌が銃で撃たれる被害者を演じて金を奪ったが、その際、被害者の鮫肌を助けようとしたのがトシコだったと鮫肌たちは気づく。そしてさらに、原作では組織の金を奪った鮫肌を幹部の田抜率いる連中が追うという話だったが、映画ではおそらくこうした銀行強盗などは田抜の指示で行なわれており、得た金は田抜の許へ収めるはずなのに鮫肌が奪ってしまった。だから田抜が執拗に追い、沢田は途中で嫌気がさして組織から抜けてしまったのだろう。
映画は、原作に設定やキャラなどいろいろ追加・変更しており、ラストも異なる。それでも原作を好きな私が楽しめたのは、映画に原作に対するリスペクトがあるからなのかも知れない。

ごろねこの本棚【35】(7)

  • ごろねこ
  • 2023/12/17 (Sun) 20:07:01
『ゴルゴ13(1)(222)』(さいとうたかを、さいとう・プロ作品)
小学館・(1)1970年1月1日号、(222)2024年1月13日号・B6判

先日、『ゴルゴ13』の222巻を買った。上記の日付けは雑誌の号数であり、実際の発売日は号数の1カ月前になる。『ゴルゴ13』はいくつかのシリーズで刊行されているが、私が買っているのはこの「別冊ビッグコミック」版である。1巻からしばらくの間は「ビッグコミック臨時増刊号」の名称で巻数(号数)表記はなかった。このシリーズが本誌掲載から最速(といっても1~3年後)で刊行されるが、雑誌扱いなので買いそびれないように注意が必要だ。この後、さらに1年後にB5判の「ビッグコミック増刊」のシリーズが刊行され、さらに1年後にリイド社の単行本が刊行される。ただ、収録作品は同じではないので、作品によって収録される時間差は変わる。他にテーマ別再編集のコンビニ版「My First BIG」シリーズもある。昔は文庫版やハードカバー版のシリーズも出ていた。
ともあれ、222巻も刊行されている作品は『ゴルゴ13』の他にはない。年数にして50年以上買い続けていることになる。もっとも作者さいとう・たかをは2021年9月に亡くなったので、それまでの「さいとう・たかを/さいとう・プロ作品」の表記が「原作さいとう・たかを/さいとう・プロ作品」に変わっている。さいとう自身が担当していたのは作品の構成と構図であり、絵に関しては主要人物の顔をペン入れしていたと(昔、TV番組「情熱大陸」で)言っていた。ゴルゴの目しか描いていないという噂は嘘である。以前『ごろねこ』で検証したが、年月を経ているわりにゴルゴの顔は意外と変わっていない。さいとう自身が作家として成熟期に入っていたからと思われるが、さすがに2000年代になると、462話「ドナウ・ライン迷路」など『ゴルゴ13』のパロディのような絵のときがあった。代筆だったのかさいとうの体調が悪かったのか、何か理由があったのだろう。現在、ゴルゴの顔だけはさいとうのタッチで描くのが難しいので、膨大な表情のストックの中から、ふさわしいものをトレスして使っているそうだ。
第1巻には、第1話「ビッグ・セイフ作戦」、第4話「色褪せた紋章」、第3話「バラと狼の倒錯」、第7話「ブービートラップ」が収録されている。このように発表順の収録ではないので、それぞれのシリーズで収録話が異なるのである。また、何らかの作品内容の事情によって初出以外の発表を自粛している単行本未収録作が数話ある。2000年に『ゴルゴ学』が刊行された時点では、本誌237話、245話、266話、増刊32話の4話がタイトルも不明で単行本未収録と書いてある。熱心な『ゴルゴ13』ファンなら初出誌を持っているだろうが、私は持っていない。探して読もうという意欲はないが、どういう事情で自粛しているのかは気になるところだ。第222巻には、第611話「逆心のプラントアカデミー」ほか2話が収録。「逆心の…」の発表が21年10月なので、この作品まではさいとうが執筆するか目を通すかはしていたかも知れない。この作以降、さいとうがまったくタッチしていない『ゴルゴ13』になってしまうわけだ。そういえば、さいとうは、『ゴルゴ13』の第1話を描いたあと作品のパターンを考えたところ10ぐらいしかなかったと述べていた。その段階で最終回の話は完全に出来上がっていたそうだ。結局は10のパターンを繰り返し描いているそうだが、いつかさいとうが考えていた最終回を読むことができるのだろうか。

ごろねこの本棚【35】(8)

  • ごろねこ
  • 2023/12/21 (Thu) 20:35:19
『ゴルゴ13』(監督・佐藤純弥、出演・高倉健)
東映・イラン映画提携作品・1973年12月公開・2012年DVD発売

『ゴルゴ13』を東映で映画化する話があったとき、さいとう・たかをは乗り気ではなかったが、元々ゴルゴに高倉健をイメージしていたので、高倉健主演でオール海外ロケならいいと答えたところ、それが通ってしまって映画化されたという。脚本はさいとうがちゃんとシナリオ原稿として書いた(映画には「脚本/さいとう・たかを、K・元美津」とクレジットされている)そうだが、映画になったらまったく違ったものができてびっくりした、と述べている。全編イランでロケをして、高倉以外すべて外国人俳優を使っている(声は高倉以外すべて日本語吹き替え)ので、なかなか脚本通りに撮れなかった面もあると思うが、そもそもさいとうと監督とのゴルゴに対する認識が違っていたのだろう。監督は、世界を股にかけて活躍する一匹狼のスナイパー、ぐらいの認識で見ていたのではないだろうか。
ゴルゴ13の今回のターゲットは国際犯罪組織のボスであるマックス・ボアという男。ボアがイランにいると情報があり、某国秘密警察が逮捕しようとするが、捜査員はことごとく殺され、最後の手段としてゴルゴにボア暗殺を依頼したのだ。ただボアには多くの影武者がいて、部下でさえ素顔を知らないという。また、ボア一味もゴルゴがテヘランに入ったと知り、ゴルゴを追う。ゴルゴは、ボアのアジト情報と、ボアが小鳥の愛好家である情報を得るが、情報屋が一味に殺され、容疑者としてテヘラン市警に追われることになる。また、テヘランでは女性の誘拐事件が多発しており、市警のアマン警部の妻も誘拐される。アマン警部はゴルゴを見つけ、滞在するホテルを急襲するが、ゴルゴは逃亡する。市警はボアの一味が誘拐した女性たちを海外に売り飛ばそうとしていることと、女性たちを別のアジトに移そうとしているという情報もつかむ。その頃、ゴルゴはボアのアジトを探り当て、肩に小鳥を乗せた男を狙撃するが、それは影武者を身代わりにした罠で、ゴルゴは殺し屋たちに捕まってしまう。だが隙をついて、殺し屋を返り討ちにする。
別のアジトへ向かうアマン警部たちを殺そうと、ボア一味は道路に多くの地雷を仕掛けたが、ゴルゴが狙撃して地雷をことごとく爆破する。アジトに着いたゴルゴは朝食をとるボアを狙うが、その席には大勢の影武者もいた。ゴルゴは鳥籠を撃って、籠から出た鳥が懐く男をボアと見て狙撃しようとするが、部下たちに追いつかれ狙撃できなかった。ボアはゴルゴをおびき出そうと、姿を現わさなければ女たち一人ずつ殺すと脅し、秘密警察の連絡員だった女が最初に殺された。そのときアマン警部が現れ、妻を含む人質を救おうと突進して解放に成功するが、彼自身は銃撃を受け息絶える。ゴルゴは逃げ出したボアを自動車で追うが、部下のヘリコプターに攻撃される。何とかヘリコプターを撃墜するものの、自動車は破壊され、ゴルゴは一人砂漠地帯に取り残されてしまう。数日後の夜明け、湖畔の隠れ家のテラスで朝食をとっていたボアは狙撃を受けて死ぬ。対岸には砂漠地帯を歩いて抜けて来たゴルゴの姿があった。ゴルゴは、息絶えたボアに近づく小鳥も狙撃する。
元々が高倉健のイメージから生まれたゴルゴ13なので、とくに初期の頃の原作を見ると、高倉健が演じるのに違和感は少ない。ただ、どうしてもゴルゴ13はこういう表情はしないだろうとかこんな行動はとらないだろうとかいったことが気になる。海外ロケで外国人が吹き替えで喋っているのも、かえってチープな感じがする。いくら原作が面白いといっても、実写映画で表現するには何か一つ映画独自の面白さがなければならないのだろう。余談だが、この映画が公開された頃、ゴルゴ13を演じるのはプロレスラーの坂口征二がいいと言っていた友人がいたことを思い出す。私には判断がつきかねるが。

ごろねこの本棚【35】(9)

  • ごろねこ
  • 2023/12/26 (Tue) 20:36:11
『ゴルゴ13/九竜の首』(監督・野田幸男、出演・千葉真一)
東映京都・嘉倫電影合作・1977年9月公開・2017年DVD発売

これも一部を除いてほとんど香港ロケで、日本人俳優以外はすべて日本語吹き替えとなっている。香港公開時は、すべて広東語に吹き替えられたそうだ。千葉真一は熱血漢のイメージが強く、ゴルゴ13は合わないように思えたが、かなり原作のゴルゴに寄せた演技をしている。あるいは、原作の『九竜の餓狼』を中心に、いくつかのエピソードを組み込んで作ったストーリーなので、原作で読んだゴルゴの姿が重なるのかも知れない。B級アクション映画としては、高倉健版よりは面白かった。前作は高倉健の趣を見るだけの映画だったが、こちらはアクション映画として楽しめるのだ。元々「劇画」がB級アクションと相性がよかったことを思い出させてくれる。
マイアミにいる麻薬シンジケートのボス、ロッキー・ブラウンは、ゴルゴ13にシンジケート香港支部長の周雷鋒の暗殺を依頼する。周が麻薬を横流ししていることを知って、香港に殺し屋を送り込んだがすでに3人の殺し屋が返り討ちに遭っていた。一方、3件の殺人が同じ手口であり、麻薬密売ルートの頂点にいる周と関係があると考えた香港警察の主任刑事スミニ-は、表向きは実業家の周の身辺を捜査する。だが、潜入捜査していた部下の女刑事が殺される。
香港にやってきたゴルゴは、プール開きの祝典で主賓の周を狙撃しようとするが、何者かに先に周を射殺されてしまう。ブラウンの依頼に間違いがないことを確かめたゴルゴは、香港のシンジケートには真のボスがいて周を操っていたが、周が警察に目をつけられたと知って始末したと知る。ゴルゴの新たなターゲットは、真のボス、東欧ポーラニア国の香港領事ポランスキーだった。身の危険を感じたポランスキーはFBIにシンジケート情報と交換にアメリカへの亡命を求めていた。ゴルゴはまた、周殺しの犯人として警察に逮捕される。スミニ―には以前警護していた要人をゴルゴに暗殺されたという因縁があった。証拠不十分で釈放されたゴルゴだが、ポランスキーの雇う暗殺集団に襲われ、倒しはするものの負傷する。ポランスキーはFBIの迎えが来るのを、要塞のような島で待っていた。彼の正体を知ったスミニ―はポランスキーと彼を狙うゴルゴを捕まえようと、部下たちと共に島を襲撃し包囲網を敷く。だが、スミニ―たちの目を逃れ、ポランスキーはヘリコプターで島を脱出してしまう。が、そのとき、ゴルゴ13の撃った銃声が響き、眉間を撃たれたポランスキーが海へ落下する。
刑事スミニ―役は香港のスター、嘉倫(ステファン・リュン)。どれほど人気スターだったかは知らないが、共同製作の嘉倫電影の社長らしく、出番が多く、展開上かなりスミニ―に花を持たせている。そこがちょっと気になった。

ごろねこの本棚【35】(10)

  • ごろねこ
  • 2024/01/08 (Mon) 19:48:24
『スカルマン』(石森章太郎/石ノ森章太郎)
〔画像・上段左から〕講談社「週刊少年マガジン」1970年第3号掲載扉・B5判/メディコム・トイ・1997年刊・B5判/メディアファクトリー(SHOTARO WORLD)・1999年4月1日刊・A5判
〔画像・下段左から〕大都社・1977年5月10日刊・B6判/講談社・1997年8月22日刊・新書判(P-KC)/講談社・1970年7月10日刊・新書判(KC)/角川書店(石ノ森章太郎萬画大全集)・2006年2月22日刊・B6判

『スカルマン』については前にも書いたことがあったが、もう一度まとめておこう。1967年から、石森章太郎は「少年マガジン」に連載作品とは別に長編の読切まんがを年に1作ほど描いていた。私は、67年に2週にわたって発表した『そして…だれもいなくなった』がいかにも実験作品好きな石森らしくて好きだが、キャラクターとしては70年の『スカルマン』が圧倒的に印象に残り、1回の読切で終えるには惜しいキャラクターに思えた。それは、石森自身も思ったらしい。『スカルマン』発表後、半年から1年ほど経って、石森のもとに「仮面をつけたヒーローもの」というTVの話があり、『スカルマン』を思い出して「ドクロの仮面をつけたヒーロー」を提案したそうだ。だが、食事の時間帯の番組にドクロは困るということで、仮面が似ている昆虫(バッタ)にして『仮面ライダー』が誕生したとのこと。『黄金バット』もドクロの顔で食事の時間帯の番組だったが、アニメだからよかったのだろうか。『黄金バット』に比べたら『スカルマン』はまったくドクロには見えないと思うが。『仮面ライダー』も初めは「気持ちが悪い」といわれたという。『スカルマン』は「怪奇ロマネスク劇画」と銘打たれていて、TVもホラーを意識した企画だったらしい。それを継承した『仮面ライダー』も初めは暗い内容だったが、人気が上がるにつれて明るくなっていったそうである。
100ページの読切まんがであるにも関わらず、『スカルマン』を表題とした単行本が6種も刊行されているのは、やはり『仮面ライダー』の原点となった作品だからだろうか。
女優殺害、代議士秘書の交通事故、貨物列車転覆、電子工業研究所の爆破火災、一見何の繋がりもない事件事故のようだが、これらはスカルマンと名乗る仮面の男と、彼の連れる変身人間ガロという怪物によって起こされていた。それを見破るのは、15年前から一人の危険人物を追いかけていた興信所所長・立木。当時3歳だった子供は今や18歳となったが、2,3年前からスカルマンと名乗って殺人を繰り返していたのだ。あるとき、立木の許を訪れた神楽達男という男が、新たな所員となる。達男はヤクザ神楽組の若親分だった。だが、じつは達男は15年前に神楽家に引き取られた養子で、彼こそがスカルマンだと、立木は知る。達男もまた両親を殺した犯人を探して、立木に近づいたのだ。武装隊を連れて達男を包囲する立木だが、達男はガロに迎え撃たせ、催眠能力で立木の黒幕が財界の大物「千里虎月」だと知る。立木を殺し、虎月の屋敷へと向かう達男。今まで黒幕の正体を知るために黒幕に繋がる人物は誰でも見境なく殺して来たのだ。ようやく今、達男は虎月とその孫娘・麻耶と対面した。だが、虎月が達男の祖父で、麻耶は妹であると知り、達男は動揺する。達男の両親はミュータントともいうべき天才的頭脳を持ち、人類を滅ぼしかねない研究や実験をしていたことに虎月は恐怖を感じ、二人を殺したという。だが、達男は両親が作ったガロに連れ去られてしまい、虎月はその行方を立木に追わせていたのである。虎月と麻耶を追って達男とガロが部屋に入ると炎が噴き出し、虎月が「死のう、みんなで…。わしらは生まれて来る時代を間違えたのじゃ」という言葉と共に四人は業火に包まれた。

ごろねこの本棚【35】(11)

  • ごろねこ
  • 2024/01/09 (Tue) 19:43:03
『スカルマン THE SKULL MAN(1)(2)』(島本和彦、原作・石ノ森章太郎)
メディアファクトリー・(1)1998年11月1日刊(2)1999年1月1日刊・B6判

1998年4月に創刊した隔週刊誌「コミックアルファ」は、予定では石ノ森章太郎が描く『サイボーグ009』の「完結編」と、石ノ森原作で島本和彦が描く『スカルマン』の続編が同時連載となるはずだったが、石ノ森章太郎が98年1月に逝去したため、『スカルマン』だけの連載となった。前年に島本は、石ノ森がスカルマンを島本に「やる」と言ったと聞いて二つ返事で執筆を引き受け、前作以降のストーリーのプロットを聞き、その素晴らしさに自分に描けるのかと自信がなくなったと述べている。また一説には、石ノ森から構想を聞き、「きっちり原作書くから」と言われて安心し、描くことを願い出たものの、石ノ森から送られて来たのは簡単なメモが三枚だけで、これでどうやって描くのかと島本が泣いたともいわれている。実際、この続編にどの程度石ノ森の構想が入っているのかはわからないが、オリジナルのラストで炎に包まれた四人はガロの力で助かる。スカルマンは神楽達男ではなく、本名の千里竜生に戻っている。前は竜生(たつお)を一般的な達男に変えていたが、そこは「りゅうせい」と名乗っている。
さて、オリジナルの『スカルマン』を原点として『仮面ライダー』が生まれ、スカルマンは仮面ライダーに、人造人間ガロはショッカーの怪人たちに生まれ変わり、敵は悪の秘密組織ショッカーだった。この続編では、悪のヒーローだったスカルマンは、悪の秘密結社と戦うヒーローに変わった。その組織のボスは、両親の助手だったラスプーチンという男で、竜生と同じ能力を持ち、改造人間を作って世界征服を目論んでいる。この続編『スカルマン』は、『仮面ライダー』のパラレルワールドにもなっており、『仮面ライダー』がオーバーラップしている。たとえばラスプーチンによって改造人間バッタ男にされた飛岡剛という刑事は、倒れたところを竜生に助けられ仮面ライダーに変身できるよう強化改造される。ラスプーチンを倒すのはスカルマンではなく、この仮面ライダーである。また、神楽組の組員の綾瀬五郎という男は竜生の友人だが、ライバルでもあり、自ら改造手術を受けてサソリ男となる。『仮面ライダー』でも本郷猛の親友であった早瀬五郎がサソリ男となる。
このように続編『スカルマン』は、ある意味『仮面ライダー』の話を内包してショッカーならぬラスプーチンを倒すのだが、じつはラスプーチンを操る黒幕がいて、それは生きていた竜生の両親だったのだ。その後の戦いを予感させながら、物語は終わる。(全7巻)
さて、2007年からTVアニメで『スカルマン』(全13話)が放映され、そのまんが版をMEIMUが描いて配信された。私はアニメもまんがも見ていないが、これまでの『スカルマン』とは舞台も登場人物も異なり、まったくの別物となっている。

ごろねこの本棚【35】(12)

  • ごろねこ
  • 2024/01/10 (Wed) 20:02:23
『スカルマン THE SKULL MAN 闇の序章』(監督・富士川祐輔、出演・鈴木亜美)
フジテレビ・2007年4月21日放送・2007年9月DVD発売

2007年4月28日からTVアニメ『スカルマン』全13話が放送された。舞台は、第二次世界大戦後の現実とは違う歴史を辿った昭和40年代の日本。南北に分断された日本の、かつては小さな山村にすぎなかった地域に、国家的大企業である大伴コンツェルンが進出し、大規模に開発して「影の首都」と呼ばれるほどの企業都市・大伴市が生まれる。市は治外法権となり、市民に行動制限を課していた。そしてグループに属する大伴薬品生化学研究所は獣人(GRО)を作り出すガ號計画を行なっていた。市内では、人々が不慮の死を遂げる事件が多発していたが、実は彼らはガ號(GRО)であり、事件現場ではドクロの仮面を被った「骸骨男」が目撃されていた。
といったような設定から始まるが、骸骨男(スカルマン)の偽者が登場したり、本物が死んで二代目に受け継がれたり、獣人(GRО)の他にサイボーグ兵士が登場したりする。また骸骨のマスクは、GRОの最終形態である新人類の超能力を制御するためのものであることもわかる。全13話のわりに話が複雑なように思えるが、私は見ていないのでわからない。MEIMUのコミカライズ版は全2巻。
さて、このアニメ版の放送が始まる前の週(2007年4月21日)に、序章として実写特撮ドラマが放送された。実写ということだったので、この序章だけリアルタイムで見た。当時、設定の説明もなく話はよくわからなかったが、スカルマンがかなりスタイリッシュになっていたことは覚えている。それもそのはず、アニメのプロモーション用に作ったスーツが好評だったため、この実写版が企画されたそうだ。急遽製作が決まったせいか、30分枠1回限りではロケハンや大道具の製作をできなかったせいか、あるいは架空の世界観を出すためか、この作品の背景はすべてCGで表現している。撮影は全編グリーンバックだけのスタジオで行なわれたという。ストーリーは、謎の男スカルマンが一人のガ號(獣人)を倒すエピソードで、出演は鈴木亜美と細川茂樹。
大伴製薬の生化学研究所に勤める高明寺倫子は、研究員・小角弘志との結婚を控えて幸せなはずだったが、ドクロの仮面をつけた怪人に襲われる悪夢に悩まされていた。そんなとき、弘志から、二人の幸せのためにある計画への協力を頼まれる。それは金庫から書類を盗み出し、ある組織に渡すことだった。倫子はとまどいながらも「ガ號計画書」という書類を盗み出し、弘志と共に逃げる。だが、二人の行動はばれており、大伴のエージェントたちに追いつめられる。じつは弘志は計画書の他に倫子をも組織に売ろうとしていた。倫子は彼女自身も知らない間に「ガ號」へと改造されていたのである。だが、弘志が降伏しようとしたとき何者かの銃弾に倒れ、倫子のペンダントを引きちぎる。ペンダントは変身する鍵だった。倫子は獣人へと変身し、エージェントたちを全滅させるが、そこに現れたスカルマンによって倒される。倫子は弘志に抱かれた夢を見ながら息絶える。

謹賀新年

  • 2024/01/04 (Thu) 18:20:34
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

最近、「とやま潤」の「絵」が何気にそそられてしまいます。

あと、HP作成時から気になっていた「永樹凡人」の単行本を初めて手に入れることが出来ました。超うれしかったです。シリーズ6を手に入れたのですが・・・他にあるかは不明です。

二人の漫画家さん、ご存じでしょうか???

Re: 謹賀新年

  • ごろねこ
  • 2024/01/04 (Thu) 20:23:35
あけましておめでとうございます。

新しい作家を開拓しているとはすばらしいですね。
私などは今まで読んできた作家もだんだん減らして、読まなくなっています。

「とやま潤」という名は多分貸本で見たことがあるような気がしますが、読んだことはないですし、作品はまったく知りません。
「永樹凡人」はアニメのほうで名前を見かけますが、まんがを描いていたとは知りませんでした。もっとも平川やすしにしてもまんがからアニメに行ったわけですし、そういう作家は多かったのでしょうね。

私も失いそうな気力をふり絞って、せめて買ったまんがぐらい読まなくては(笑)。

今年もよろしくお願いします。