好きな短編まんが『300,000km./sec.』(1)

  • ごろねこ
  • 2025/06/21 (Sat) 20:40:45
ペーパーマガジン『ごろねこ』は64号を最後に作っていない。もう7年半も作っていないことになるが、手作り作業をする気力がないので、多分もう作ることはないだろう。じつは65号に予定していたのは「好きな短編まんが100」という企画だった。そのとき、作品を選びかけていたメモが出てきた。途中なので、1955年から1982年に発表された50人の作家の50作品しか選んでいない。「100」では多すぎると思って「50」に変更したのかも知れないが、忘れてしまった。そこで、時々この企画を書いていこうと思う。短編まんがとは、およそ100ページ以内の作品を目安としている。70年前後には、わりと100ページ読切まんがというのが多かったからである。

 今回は、あすなひろしの『300,000km./sec.』。「CОM」1968年1月号に掲載された。この作品については、『ごろねこ』1号で考察したことがあったので、それを要約して載せておこう。1号の刊行はなんと22年前であった。

 1933年のドイツ。研究者のヨハンは、恋人のイルゼと別れ、レーマン博士と共に地下要塞でロケット爆弾の研究に従事する。博士は世界を破滅に導くほどの新エネルギーを発見したが、軍部に隠していた。だが、軍部の追及は厳しく、博士は宇宙に脱出する準備を密かに進める。翌年、脱出用のロケットが完成したとき、ヨハンのミスからイルゼが要塞を訪ねてくる。一緒に逃げようとするが、妊娠していたイルゼを残して、ロケットは宇宙へと発射してしまう。その直後に博士は死に、ヨハンを乗せたロケットは軌道を逸れて宇宙をさまよう。そして34年。ようやく地球への軌道へ戻ったが、すでに燃料はない。ヨハンは目標を昔イルゼと住んでいた地点に定め、最後の燃料を使い切る。ロケットは光速へと加速する。生前、レーマン博士は、物質は光速に耐えきれず光の粒子となるから決して光速にはするな、と忠告していた。それなら、せめて光となった自分をイルゼに見てほしいとヨハンは思う。あるいは光速を超えて時が戻るものなら、昔に戻りたいと願う。その頃、年老いたイルゼが揺り椅子に腰かけて見えない目で空を眺めていた。ロケットが発射したときの事故で視力を失ったのだ。瞬間、イルゼの体が光に包まれる。駆け寄ってくる息子夫婦と孫。「すごくまぶしい光が母さんを包んだよ」「青い光でしたわ、大きなロケットぐらいの……」

 『300,000km./sec.』は、レイ・ブラッドベリの『刺青の男』内の短編『万華鏡』をヒントにしたと思われる。実際、あすなひろしは『刺青の男』を読んだと言及している。
 『万華鏡』のストーリーは次の通り。宇宙船の破裂事故により乗員たちは宇宙空間に投げ出される。四方八方に散りながら乗員たちは無線で会話を続ける。地球に向かって落ちていくホリスは、自分がいかにつまらない人生を送ってきたかを痛感する。その頃、田舎の道で少年が空に流れ星を見つける。母親は少年に「願いごとをおっしゃい」と言う。
 つまり、空虚な人生を送った男が少年の願いをかける流れ星になることで報われるという短編である。この小説は1951年に発表され、日本で翻訳が出たのはハヤカワ書房から60年頃のことである。あらすじだけでは『300,000km./sec.』とはまったく関係がないように思われる。

 この短編をヒントに石森章太郎(後に石ノ森章太郎)が『サイボーグ009』(地下帝国ヨミ編)の最終回(「週刊少年マガジン」67年13号)を描いている。黒い幽霊団の魔神像を破壊した009は宇宙空間に投げ出される。助けにきた002と抱き合いながら二人は大気圏に突入していく。その頃、流れ星を見た姉弟(姉妹?)が願いをかける。姉は言う。「あたしはね、世界に戦争がなくなりますように……、世界中の人がなかよく平和に暮らせますようにって……、祈ったわ」。
 平和のために闘ってきたサイボーグ戦士が、平和の願いをかける流れ星となって死んでいく。もちろん石森自身が『万華鏡』をヒントにしたとは言っていないが、長編の締め括りにふさわしいシーンとして見事に活かされていると思う。『サイボーグ009』はこの後何度も甦るのだが、私としてはこの「マガジン」版で完結してもよかったのではないかと思う。

 また、坂口尚に『流れ星』という作品がある(1979年刊行「SFマンガ大全集PART3・別冊奇想天外№8」初出)。
 おばあちゃんは星の出ている晩はいつも揺り椅子に腰かけ、空を眺めている。おばあちゃんの夫はロケットのテスト・パイロット。地球に帰還するときはいつも減速の噴射を小刻みに光らせ、「ただいま」という合図を送っていた。だが、35年前に光子ロケット・ノバのテストに飛び立ったまま、帰らなかった。ある夜、おばあちゃんは急報を受けて息子の車で宇宙センターへ向かう。宇宙を漂流していたノバが地球に帰還したと、宇宙センターから連絡があったのだ。だが、夫は言う。妻とは過去と未来に隔てられてしまった、と。光速に近いスピードで飛んでいたノバの船内は、時間は半年しか経っていないのだ。そして、管制塔の指示を無視してノバは加速を始め、大気圏に突入する。その頃、途中の道で車を降りたおばあちゃんは夜空を見上げる。合図の点滅が光り、星が流れていく。「お帰りなさい、あなた」。おばあちゃんは呟く。「あの人……、時間を止めたの……」。

 『流れ星』もまた『万華鏡』と同じ構図をもっていることがわかるが、同時に異なる部分も多い。流れ星になるのは人ではなくロケット、地上で眺めているのは見知らぬ他人ではなく妻、星に願いをかけるのではなく星からの合図を受け取る。そして、この異なる部分は『300,000km./sec.』と共通している。さらに、35年の時を隔てて宇宙から帰還する夫。揺り椅子に腰かけて空を見上げて待つ妻。夫がいなくなってから生まれた息子には妻や子がいる、といったことまで共通している。
 もちろん、坂口尚は『万華鏡』を読んでいただろうが、『300,000km./sec.』も読んでいて、その影響を受けたのだと思う。というのは、坂口尚は1963年から4年ほど虫プロに勤務し、虫プロ商事刊行の「CОM」69年9月号でまんが家デビューしている。『300,000km./sec.』が「CОM」に掲載されたとき(67年12月発売)、坂口尚がまだ虫プロの社員だったかどうかはわからないが、虫プロ界隈にいて自分のデビュー作を発表する「CОM」を読んでいないわけがない。

 あすなの『300,000km./sec.』はブラッドベリの『万華鏡』をヒントにしたと書いたが、『万華鏡』の肝心のモチーフである「地球の大気圏に突入して流れ星になるのを、地上で見る」という要素は存在しない。ヨハンは時が戻ることを願いながら、光速を超えて青い光になってしまうが、流れ星にはならない。また、光はイルゼを包むが、盲目のイルゼにその光は見えない。両作に共通点はなく、ヒントにしたというのは、あすなが『万華鏡』を読んだという情報からの憶測にすぎない。だが、坂口尚は確実にその両作を読んでいる。そしてあすな作品の要素を取り入れながら、「地球の大気圏に突入して流れ星になるのを、地上で見る」というドラマに戻した。つまり『流れ星』を介することによって、『300,000km./sec.』が『万華鏡』をヒントにしていたと浮かび上がるのである。

好きな短編まんが『300,000km./sec.』(2)

  • ごろねこ
  • 2025/06/22 (Sun) 19:36:57
『流れ星』の夫婦は時間を隔てられ、『300,000km./sec.』の夫婦は空間を隔てられている。また、『流れ星』は妻の視点から語られる「夢」であり、『300,000km./sec.』は夫の視点から語られる「夢」である。

 夫婦とは同じ現在を共有し、同じ未来を夢見て生きていく。同じ時間を生きてこそ愛を育むことができる。『流れ星』の妻にとって、35年前に宇宙へ消えてしまった夫は過去の存在である。すでに二人で築くはずの現在も未来も失われた。過去を思い出して暮らしながらも、その時間が二度と戻ってこないのを知っている。35年前の姿で帰ってきた夫は、はかない夢だ。地上に降りそそぐ星の光が、遠い過去の光であるように、流れ星となった夫は過去の幻影である。その一瞬に二人の時間が戻るのは老女の夢でしかない。「お帰りなさい」と夫を迎えても、次の瞬間、その光は空しく消える。妻は「これでいいのよ」と呟く。まるで夢から覚めたように。

 妻の側から語られる『流れ星』は美しい。だが、夫の側に立ったとき、「ただいま」と妻へのメッセージを残しながら自ら死を選んでいる。宇宙センターによる回収作業を拒否して、隔てられた妻との時間を嘆きながら加速して大気圏に突入するのだ。夫は、妻の声だけでも聞きたいとは思わなかったのか。35歳年上になってしまった妻でも会いたいとは思わなかったのか。自分の子や孫たちの顔を見たいとは。……妻の夢でしかない夫にそのような躊躇いは見られない。妻にとって、夫は過去に区切りをつけるために帰ってくる存在である。だから想いは伝わらなければならないが、同時にはかなく消えなければならないのだ。妻の視点から語られる「夢」というのは、そういう意味である。読者は妻の視点で、この美しく悲しい話を味わうだけである。夫の視点が物語に関与することは最後までない。
 差別的な見方になってしまうかも知れないが、もし妻が年をとらず、夫が35歳年上になるという逆の状態だったとしたら、夫はこうした結末を選び、妻はこうした結末を受け入れただろうか。ふと、そんな疑問を感じる。

 果てしない空間を隔てられた夫婦は、互いの生死すらわからない。『300,000km./sec.』のヨハンは、ただイルゼに会いたい、イルゼの許に帰りたいと願い続けている。そのためには光速を超えるしか方法がないが、そうすれば自分は光となって消滅する。せめて光となった自分を見てほしいと願って、ヨハンは加速する。もしかしたら、光速を超えることによって時間が戻るかも知れないとはかない望みも抱いている。

 ヨハンの側から語られる『300,000km./sec.』は切ない。イルゼは生きていた。昔と同じ場所に住んでおり、息子夫婦や孫と暮らしていた。光となったヨハンは、遙か遠いイルゼの許に辿り着くことができる。だが、それをヨハンが知ることはなく、視力を失ったイルゼに光は見えない。最後の、そして唯一のヨハンの願いすら叶わない。

 光となったヨハンがイルゼを包み込むシーンも美しい。それもまたイルゼの許へ帰りたいと願っていたヨハンの見た夢かも知れない。ヨハンの夢は美しく終わるが、同時にヨハンの存在も消滅する。物語の語り部であった(夢を見ていた)ヨハンの存在そのものが夢であったかのように。
「かあさん、大丈夫かい!」
 庭の揺り椅子に腰かけるイルゼの許に息子夫婦と孫が駆け寄ってくる。
「すごくまぶしい光がかあさんを包んだよ」
「青い光でしたわ、大きなロケットぐらいの……」
「……そう」と、盲目のイルゼは揺り椅子から立ち上がる。「青い光ね……、ロケットぐらいの」
 まるで夢から覚めたように、イルゼは屋内へと戻っていく。「大きなロケットぐらいの……ね」
 このラストで、私たちは、ヨハンの視点で語られてきた物語、そのすべてが、ヨハンを待ち続けていたイルゼの見た夢である可能性に気づかされる。夫の視点から語られる「夢」というのは、夫の視点から語られる「妻が見た夢」という意味である。

 ヨハンの見た夢は美しく悲しい。それはまたイルゼの切なく消えていく夢でもある。時は二度と取り戻せず、遙かに隔たった想いは伝わらない。だからこそ人は夢を見る。夢は美しいが、切なくはかない。決して現実と交わることもない。
 夢の終わりが悲しい現実なのか、現実の終わりがはかない夢なのか、それともすべてが夢なのか。『300,000km./sec.』の余韻は深い。

『ロボゲイシャ』

  • ごろねこ
  • 2025/07/04 (Fri) 21:31:35
『片腕マシンガール』の次の井口昇監督作品が『ロボゲイシャ』(2009年公開)である。
『片腕マシンガール』は、ハチャメチャなスプラッタ・シーンが見ものだが、一応復讐劇としての筋は通っているし、ハチャメチャなわりには真面目にドラマを語っている。ただ、その部分部分に「何だ、これは」といったドタバタなシーンや展開が窺えて、それがスパイスになっていたと思う。

 この『ロボゲイシャ』は、『仮面ライダー』などや巨大ロボものの特撮ドラマをベースに、その主人公を芸者に置き換えている。いや、なぜ芸者なのか、という話だが、とにかくそうしたドラマのように見える。スプラッタは『片腕』に比べるとほとんどないが(一般的には結構ある。アンレイテッド・バージョンは残酷描写が少し多い)、その代わり、3分に1回ぐらいドタバタなシーンや展開が入っており、スパイスどころではない。むしろ次から次へと繰り出すドタバタに隠れて、スパイスとしてドラマが入っているといった方がいい。

 美人芸者菊奴の妹ヨシエは、姉の付き人として姉や女将に疎まれながら辛い日々を過ごしていた。ある日、菊奴のなじみ客で影野製鉄の御曹司ヒカルが、ヨシエの隠された戦闘能力に目をつける。ヒカルは菊奴とヨシエを城のような本社に招くが、そこで姉妹は天軍(テングン)という二人組の女に拉致されてしまう。姉妹は、影野製鉄の裏組織である殺人芸者マシーンの養成所に放りこまれ、敵対しながらも互いにロボゲイシャへと改造されていく。
 悪の組織に捕まり改造人間にされるというのは『仮面ライダー』だが、なぜ「芸者」なのかというのは、大企業が、政治家や役人などを暗殺するのに芸者が呼ばれる酒席が都合がいいということなのだろう。むしろ芸者が暗殺者では目立ちすぎると思えるが、画面に色気を添える効果もあるだろう。

 あるとき、ヨシエは暗殺に向かった先で、影野製鉄に拉致された家族を救出する会の存在を知る。天軍の二人や養成所の女たちはみな彼らの家族だった。彼らを殺せずに帰ったヨシエは、姉を人質にとられて次の暗殺を指図されるが、その相手は敵ではなく、影野製鉄が特殊爆弾で日本人を絶滅させようと企むのを阻止しようとしていた者たちだった。ヨシエはヒカルの罠にはまって、その者たち共々爆破される。
 ヨシエは救出する会の人々に救われるが、彼らが影野製鉄へ乗り込んだことを知り、後を追う。案の定、影野製鉄の社内では救出の会の人々との乱戦が始まっていた。さらに城のような本社ビルから手足が生え、巨大ロボットと化して歩き始めた。富士山の頂上まで登り、噴火口から特殊爆弾を投げ入れ、日本を滅ぼそうとしているのだ。そのロボ内で、最終決戦に臨むヨシエとヒカル。だが、ヒカルは記憶を失くした菊奴にヨシエを襲わせる。ヨシエは菊奴の記憶を取り戻させようとするが、ヒカルと連動した巨大ロボは徐々に山頂へと近づいていく。

 拉致された家族を救出する会は、救出どころか自ら家族を殺してしまっているとか、影野製鉄は日本を征服しようとしていたはずなのに、結局ヤケになって日本と共に滅びようとしているとか、ストーリーが矛盾しているようだが、考えてみれば現実とはそういうものなんじゃないかと思えてくる。それに対して、ヨシエと菊奴の姉妹は互いに憎しみ、殺し合いすらしているのに、最終的には合体して敵を倒し共に死ぬ。この姉妹の関係は現実的に見えながら、じつはファンタジーであろう。わけがわからなくなりそうなドタバタな展開の中で、このファンタジーこそがスパイスなのである。私にとって、この映画の魅力はこのスパイスにあった。
 魅力を感じるところは人それぞれだと思うが、この映画を見て面白いと感じるかどうかは大きく分かれるだろう。じつは、あまりのドタバタさに許せない気持ちになる人がいるとは想像できるが、そんなに目くじらを立てないで楽しく見ようよ、と言いたい。

 主演のヨシエは木口亜矢、その姉は長谷部瞳。敵役ヒカルは斎藤工。斎藤工は『赤んぼ少女』にも出ていたが、この頃はわりと独特な映画に多く出演していた印象がある。井口作品常連の亜紗美と島津健太郎も出演しているが、井口監督が『片腕マシンガール』で注目されたためか、竹中直人・志垣太郎・生田悦子・松尾スズキといったよく知られた役者も出演している。
(投稿前に、内容をプレビューして確認できます)